2018年4月25日水曜日

私のアルバムから④朝丘雪路



54年前(昭和39年)の写真である。当時「TDKタイムズ」には「私のアシスタント」と並んで「録音本番中」という有名人が登場する企画があった。
「録音本番中」は高尾泰弘(常務取締役)が交友関係にある著名人と対談するという企画。高尾さんは慶応大学出身。かつて鐘紡サービスステーション所長だった。経済人、文化人全般にわたって人脈が広く”粋”な方で歌舞伎座の文士劇にも出演している。
 朝丘雪路さんは、昭和40年の新年号に登場した。
対談記事の前書き・・・。
「忙しい朝丘さんをつかまえるのに、高尾常務がうんと苦労した。東京では時間があかず、名古屋ならOKということだった。師走のあわただしい中を”ヒカリ”で名古屋にとんだ。新国劇に出演中の朝丘さん、昼の部がはねた後のひとときを、時間を気にしながらのスピード対談。幸運だったという芸歴が聞きなれたハスキーにのって、限りなかった。しかし、彼女にもオサンドンばかりしていた時代があったのだ・・・」
 (朝丘雪路ー1935年生まれ。元宝塚劇団。父は日本画家の伊東深水。ご主人は津川雅彦。)
*「録音本番中」には巨人軍監督・川上哲治、社会党委員長・川上丈太郎、横綱柏戸、木暮美千代、将棋の升田名人、日本興行銀行常務・梶浦英夫等の多くの著名人が登場した。
 私は木暮美千代、朝丘雪路の取材を担当した。
 高尾さんは幅広い交友がもたらす無形財産の意味を若造の私に教えて下さった。



2018年4月19日木曜日

「空前の”悲愴”」音楽三兄弟、狂騒曲

 
4月7日(土)、私が理事を務める音楽愛好会「竜ケ崎ゲヴァントハウス」にでかける。開演10分前、会場の扉を開けると、とてつもない大音響が鳴り響いている。「なんだこれは!」と私。メンバーの一人酒井文彦さんが、「これ、今年レコードアカデミー大賞を受賞した”悲愴”です」。
 翌日、その「悲愴」(チャイコフスキー作曲・交響曲第6番)を聴く。再生がはじまっているのに音が聴こえない。いよいよ高齢現象の難聴かと思い、ボリュームをあげる。聴こえたきこえた。3分近くして展開部のフォルテ(強音)の部分になる。アッと驚く。スピーカが強音で破裂しそう。あわててボリュームを絞る。この「悲愴」を評論家の先生は「空前の悲愴」と名づけている。今までのCDと比較すると、演奏、録音ともダイナミックレンジが極端に広いのだ。弱音は徹底して弱く、強音は天地がひっくりかえるほど。オーケストラが咆哮する。
 15日(日)弟と東京文化会館でロッシーニの「スターバト・マーテル」を聴く。この時「空前の悲愴」の話をする。17日、弟の感想「テンポ、間、強弱いずれも今まで聴いたことがないものでした。録音はホールなのでしょうか。ものすごい大空間での響きですね」18日、夕方☎のベルが鳴る。秋田の兄からである。「カーステレオで聴いて、レコード大賞といってもこんなものか?と思っていたが、あんたから言われて、座敷の大型スピーカーで聴いて驚いたよ。音も凄いし、一つ一つの楽器が意味のある鳴り方をしている」。悲愴といえば、チャイコフスキーと同郷のムラヴィンスキー、帝王カラヤンが定番だが、新進指揮者クルレンツィスの演奏は破格である。クラシック演奏も時代とともに変わる。
 オッと、15日の「スターバト・マーテル」(聖母マリアの七つの悲しみ)<ロッシーニ没後150周年記念>も良かった。新人女性指揮者スカップッチ(写真・上)が劇的にまとめ、感動の拍手が沸き起こった。

2018年4月13日金曜日

私のアルバムから③TDK創業者・斎藤憲三と石沢村

TDKを創立したのは秋田県にかほ市(当時、由利郡平沢町)出身の斎藤憲三です。
昭和10年、斎藤37才の時でした。創立の目的は東京工業大学の加藤与五郎、武井武両博士の発明した磁性材料フェライトを工業化するためでした。
 
昭和21年、斎藤は社長の座を山﨑貞一にゆずり、昭和28年、衆議院選挙に立候補。政治家の道に進みます。日本を科学立国にするためでした。
 私は平沢町から20キロほど離れた石沢村の出身です。中学生のころ、村にも斎藤の選挙カーがやってきました。祖父は横手出身の笹山茂太郎を支持。父は斎藤を支持しておりました。米価値上げに賛成の笹山に対し、斎藤は「農工一体」を主張し、米価値上げには冷静だったため、選挙戦では苦戦を強いられました。
 昭和35年、私は高校を卒業すると、父の紹介でTDK平沢工場の入社試験を受けました。平沢工場の工場長は石沢村出身の小松正一でした。小松は斎藤の選挙母体として「横荘会」(おうしょうかい)という親睦団体を作りました。横は横手の横、荘は本荘の荘です。本荘→横手街道沿いの地盤づくりです。石沢は街道沿いにあり、斎藤も石沢を訪れ、農家の方々と交流をはかりました。(写真、左端が小松、後方中央が斎藤。昭和35年頃)
 私の兄は斎藤の依頼で農村青年代表として応援演説を行いました。これが縁で山﨑社長の謦咳に接することにもなりました。兄は自分史に、尊敬する人物として山﨑貞一、小畑勇二郎(元・秋田県知事)の2人を挙げております。
 往時から約50年、写真の方々はほとんどが亡くなられました。しかし、現在、石沢村から3キロにはTDKの積層チップコンデンサの大工場が聳えております。斎藤が目指した「農工一体」です。



2018年4月9日月曜日

老い仕度


Nさんから電話をいただいた。
「こんどの日曜日(8日)空いてますか?ご招待しますから付き合っていただけませんか?」
 Nさんとゴルフをするのは20年ぶりくらいである。Nさんが理事をつとめる筑波のゴルフ場にでかけた。東京近郊のゴルフ場でしかも日曜日にゴルフをするなど、年金生活の私にはなんとも贅沢な話である。ゴルフ場に到着すると、駐車場は満杯。ベンツ等の外車がズラリと並んでいる。正面玄関でキャディさんがお出迎え。ゴルフバックを降ろすためバックドアのボタンを引く。「ホホホ、お客様、それ給油口です」。なんと、バックドアのつもりで給油ボタンを引いたのである。
 レストランでコーヒーをいただきながら、Nさんを待つ。「やあ、光っているものが見えとる思ったら、畠山さんの頭じゃないですか」
  キャディ付き、2人でまわる。キャディさんは山形出身。同じ東北ということで気を許したのか私に耳打ち。「N様も最近、耳が遠くなられて・・・」。「実は私もそうなんです」。スコアの方はNさんが90、私が110。こんな下手な私をゴルフに誘って下さる。なぜだろう?多分、ゴルフ仲間もご高齢で引退される方が多くなっているのではないか・・・。
 「畠山さん、またやりましょう」「よろしくお願いします」嬉しい反面、寂しくもあった。
 
秋田の実家の兄が自分史を送ってきた。タイトルは「農業と卓球と音楽」。経歴を見ると、農業高校、農業短大首席。農業の傍ら地元中学校の卓球コーチをやり県大会優勝に導く。若い頃、衆議院議員の斎藤憲三、村岡兼造の応援弁士を依頼される・・・。「俊、自慢話をするために自分史を出したと誤解されないかな」「兄貴、人生は自慢話と自己満足だと思うよ。気にしない方がいいよ。記録を残すことが大事だと思うよ」

8日、ゴルフから帰ると、Kさんからメール。「Hさん(NCR・OB)奥さんが要介護1のため、飲み会欠席するそうです」。またか・・・。こんな話が続く昨今である。

2018年4月4日水曜日

私のアルバムから②東海林太郎(歌手)


 〝愛と死をみつめて〟でレコード大賞を受賞した青山和子につづく2回目は大御所、東海林太郎である。東海林太郎も「TDKタイムズ」に掲載するために取材した。東海林太郎といえば「赤城の子守歌」「国境の町」で有名。取材当時は日本歌手協会会長。明治31年、秋田生まれ。大正12年、早稲田大商学部卒。満鉄に勤務したが、昭和7年第2回音楽コンクールに入賞し歌手になる。TDK創業者、斎藤憲三とは同郷、大学同期である。取材時期、昭和40年。取材を担当した私は23才だった。
以下、東海林太郎のコメント。

 「いま66才ですが一生歌い続けるつもりです。歌手にとっては体が楽器ですから、毎日節制して、体のコンディションを整えるようにしています。さらに30分の発声練習も日課です。節制とたゆまぬ基礎練習、なにをやるにもこれが一番大切ですね。
 私が歌はじめたのは昭和8年頃ですから、もう千曲くらいになるでしょうか・・・。それを長く保存するためにテープに録音することをやりだしました。私の歌手生活としての生きた歴史を残しておきたいと思っているんです。それにしても、録音のときは、家内、女中と、家族総出で大変です。日頃愛用しているシンクロテープが、憲ちゃん(斎藤憲三)のところで作っているのだということを知ったのはつい最近のことです。
 私はさっそく、工場を見せていただいたのですが、素晴らしい設備ばかりですね。さすが世界的なテープを作るところだけある、と驚いたり、感心したり・・・」

 当時の録音テープはオープンリールテープで、ブランド名はTDKでなく、シンクロだった。