2025年11月26日水曜日

豊穣な人生を満喫された英彌(ひでや)先輩

 
今年6月、齋藤英彌先輩が逝かれた。91才だった。ひでや先輩は2019年「模写三味」という本を出版された。この本を拝見すると、ひでやさんの豊穣な人生が浮かび上がってくる。
鉄道模型を観てご満悦の模写(写真・上)にこんなキャプションがついている。「平成5年の定年退職後、自宅の庭に施設した念願の鉄道模型線路は軌間45mmの1番ゲージ。本機はボイラーの前後にエンジン部を持つ2関節型の長大なSⅬ・GARRATT AD60型。当時の自宅は雑木林に囲まれ、まさにオーストラリアの原生林の雰囲気満点だった。牽引車両が旧国鉄型なのがご愛嬌」
左の模写は「シェーン」。キャプションは以下の通り。「シエーン、カムバック!と少年の叫
び声がいつまでも耳に残ったラストシーン。ジョージ・スティーブンス監督の名作”シェーン”(1953)より、アランラッド演じるシェーンと少年ジョイ。名画でしたね。この絵では犬が一番よく描けました・・・」
右の模写は昭和26年封切られた「天狗廻状」。墨絵で書いたもの。キャプションは以下の通り。「まだあどけない美空ひばりの演技は大スターになる予感がしましたね。天狗の羽うちわ紋付きの黒羽二重?の着流し。アラカンにはこの姿が一番ピッタリ来ました」
左の写真は上から小生・畠山、ひでやさん「テープサウンド」(1980・
10)「5年前、デッキのポジションは新磁性材アビリンのSAで蘇った」取材記事より。ひでやさんは音楽もオーディオも素人の小生を引き立てて、TDKカセットを世界一に導きました。ご冥福をお祈りいたします。(ひでや先輩は模写、模型の他、真空管アンプも制作。音楽はクラシック、カントリー&ウェスタン、歌謡曲・演歌、ジャンルを問わず、全てに造詣が深かった)







2025年11月19日水曜日

劇的開眼/白内障手術+眼鏡

 

目には自信があった。しかし、今年に入って実害がでた。3月オペラのコンサートに行ったが字幕が読めない。6月のオーケストラコンサートでは指揮者が眼鏡をかけていないのにかけているように見える。パソコンを打つ時もモニターに顔を近づけないと文字が読めない。8月、市内のさくらい病院に行ったらガチャ目ですね。といわれた。白内障の兆候もあるので、手術をすることにした。白内障の手術には保険適用の手術と適用外があり、保険適用では遠方か近方かどちらかを選ぶことになる。適用外では3焦点、多焦点のレンズを選ぶことができるが、30万~50万の費用がかかるという。

私は先も短いし、とりあえずパソコンを打てればいいと思い、保険適用で近方レンズを選んだ。手術後、先生は「手術は成功しました」とのことだった。確かに30センチ以内であれば、良く見える。ところが、3メートル以上になると、ダブって見える。テレビを見ると、2メートルくらいまで画面に近づかないと俳優の顔がわからない。信号がピンボケで危ない。時間が経てば治るのかと思っていたが治らない。

11月12日、さくらい病院に行ったところ、「もう手術の後もきれいに治りましたので後は3カ月後くらいに来て下さい」とのこと。「先生まだ、遠くを見ると2重に見えるのですが?」と聞くと「それは眼鏡屋さんに聞いて下さい」と、スゲない返事。先生としては近場は見えるようになったから自分の責任は果たしたとうことだろう。そういわれればそうである。私は病院をでると、近くの「眼鏡市場」にかけこんだ。若い女性係員が手際よく視力等のテストをする。「ああ、お客さまに合うレンズがわかりました」「レンズの在庫がありました」「どのフレームを選びますか」という具合で1時間ほどで、眼鏡ができ上った。その眼鏡をかけて驚きました。30センチの近場は別にして、劇的!と言っていいほど、全てが良く見えるのです。私はルンルン気分で「眼鏡市場」を後にしました。

白内障の手術代、眼鏡等合わせて、約10万円。私の目は完全に回復しました。「さくらい眼科」の先生、「眼鏡市場」のお嬢さんありがとうございました。


2025年11月15日土曜日

関東の嵐山、那須烏山で鮎料理を堪能/老人会バス研修旅行

 

10日(月)私が住んでいる刈谷地区のシニアクラブ(老人会)バス研修旅行があった。
8時30分、出発。水戸の弘道館を見学し、その後、那須烏山まで足を延ばし、鮎料理を楽しもうという趣向である。
当日は前日の雨空がウソのような秋晴れ。バスの中で、幹事役の森田さんが水戸・徳川家について語る。水戸城には天守閣がない。その理由の一つが水戸藩は非常に貧しかったためだという。徳川御三家といわれる水戸藩としては意外である。(ウイキ
ペディアでは、水戸徳川家は参勤交代を行わない江戸定府大名であったため、水戸城が藩主の居城として使われることが少なく、城内の建築物は質素だったとある)
水戸徳川家で最も知名度が高いのは水戸黄門で名高い「徳川光圀(みつくに)」である。光圀青少年時代は不良だったようだが中国の歴史家「司馬遷」(しばせん)の史記を読んで学問に目覚め、「大日本史」の編纂に取組む。この大日本史は光圀の死後も続き、完成まで2百数十年を要す水戸藩の大事業となった。編纂のために全国から逸材が集めあれた。森田氏によると、この大
事業に莫大な費用を要したのも水戸藩が貧しかった要因の一つだという。弘道館(国の重要文化財・写真)は水戸藩の学問の聖地である。ここに「大日本史」初版本の一部が展示されていた。光圀の偉業をこの目で見て感動した。(写真・上)
水戸を出発して北上、那須烏山に向かう。1時近く、鮎料理の「ひのきや」に到着。鮎料理が披露される座敷から、関東の嵐山を眺めることができる。紅葉の山肌の前を那珂川の清流
が流れる。席につくと、囲炉裏の真ん中に真っ赤な炭火が燃えている。世話人が串に刺さった鮎を持参。それを囲炉裏の周りに刺す。息つく暇もなく世話人が鮎の刺身、唐揚げを持参。囲炉裏の端には冷えた瓶ビールの箱が並ぶ。各自、ビールの栓を抜き、ビール注ぎあって乾杯!
一年に一度、刈谷老人会の宴会である。酔いが回ったところで、各自順番に近況を語り会う。来年も野趣豊か鮎の宴会したい。参加料は4千円とお得。

2025年11月6日木曜日

次世代への遺産「映画・戦場のピアニスト」

やあ、凄い映画でした。
戦争の残酷さを、こんなにリアルに描いた映画に遭遇したのははじめてである。
ドイツ軍に占領され、ゲットー(ユダヤ居住区)のユダヤ人は飢餓状態。老人がスープを持った老婆を突き倒し奪おうとする。スープ皿は路上に落ちて、スープは路上に吸い込まれる。老人は路上に顔をつけてスープの滲みを吸う。家畜運搬用列車が到着。ドイツ軍に小突かれながらユダヤ人は列車に押し込まれる。ユダヤ人達はその列車が集団虐殺場行の列車であることを知っている。列車が走り去った後に列車への乗車を拒否したユダヤ人の死体が散乱する。戦争はまさに狂気である。労働力として価値がないユダヤ人は全員殺されたのである。
主人公であるピアニストは虐殺行きの列車に家族とともに乗る覚悟だったが、ユダヤ人ゲットー警察署長の転機で、家族と引き離され逃亡する。署長は著名なピアニストだった主人公を生き延びさせようと考えたのである。逃亡先でピアニストを匿い、助けたのも音楽仲間だ
った。しかし、隠れ家で、ドイツ陸軍将校と鉢合わせになる。絶対絶命である。「何をしている、職業は?」と将校が聞くと「ピアニストです」と答える。主人公は隠れ家の居間にあったピアノでショパンのバラード第1番を弾く。廃墟の町に曲が流れる。感動した将校はピアニストにライ麦パンとジャムを与える。
廃墟の町にポーランド国家を放送するトラックが通る。ドイツ軍は敗退し、戦争は終わる。
「戦場のピアニスト」は戦争の残酷さの中にも友情があり、音楽が人々の心を結ぶということを訓えてくれる。
この映画は実在のピアニスト、シュピルマンの原作をもとにした実話である。
2003年日本公開。アカデミー監督賞、主演男優賞受賞。監督:ロマン・ポランスキー 主演:エイドリアン・プロディ 原作:ウワディスワフ・シュピルマン