2021年6月26日土曜日

聖火リレーのお手伝い・・・東京から世界へ

 
「東京オリンピック2020」まで後27日となった。
わが牛久市でも聖火リレーが行われる。
今月はじめ、私が所属している「牛久GG(グランドゴルフ)クラブ」の会長から聖火リレーのお手伝い(警備)をして欲しいという依頼があった。(7月5日)
 57年ぶりに日本で開催されるオリンピックである。聖火リレーのお手伝いができるのは光栄である。(1964年の聖火リレーでは秋田の県南地区で小松正一工場長がリレーに参加されたと記憶している)
 

驚いたのは牛久GGクラブの会長から「ルート警備運営マニュアル」を渡されたことである。CONFIDENTIAL(親展)と表示されたマニュアルは、茨城全県版、牛久市版の2冊。走行ルート、警備運営マニュアル等、事細かく記載されている。(写真)
 コロナ下であり、聖火リレーの運営について万全を期すという姿勢がうかがわれる。
 聖火リレーの運営マニュアルから推測すると、オリンピックの大会マニュアルはより万全を期したものに違いない。
 

大会運営について、マスコミでは連日問題点が指摘されている。マスコミの使命として、問題点の指摘は当然だが、批判めいたものや、感情的なものは慎み、大会の成功に向けての報道に集約すべき時期かと思う。
 
 25日は陸上の日本選手権兼東京五輪代表選考会が行われた。男子百メートルの代表が決定した。(写真・読売新聞一面)1位になった多田選手のスタートダッシュに感動した。
 コロナに負けず、オリンピックを開催し、東京から全世界に対してアスリート達の活躍を発信し、生きる勇気を人々に与えるべきだと思う。


2021年6月20日日曜日

父の日


 今日、6月20日は父の日である。
娘からは松山英樹のスリクソンポロシャツを、息子からはイギリス製のウィスキー「グレンドロナック」を貰った。
娘は51才、息子は48才、両方とも3人の子持ちである。一番お金のかかる年頃である。
プレゼントは嬉しいが、ムリはしないで欲しい。祝いのメールで十分である。

ところで、自分が娘、息子の年頃はどうだったであろうか?
自分史「ドリームⅩ」を開いてみた。
1990年(平成2)48才。義父母の喜寿祝い。家族でバーンスタイン指揮ロンドン交響楽団演奏会へ。父母の喜寿祝い。
1991年(平成3)49才。家族でオーストラリア、シドニーへ旅行。霞台カントリークラブでホールインワン。秋田県の地域経済に関する論文に入賞。世界陸上・東京大会。会社売上5千億突破。(現在、1兆4千億円)
1992年(平成4)50才。日本記録メディア工業会・業務委員長就任。
1993年(平成5)51才。フジテレビ「報道2001」で小沢一郎氏に質問。世界陸上・シュトットガルト大会。
 1989年、東証平均株価が3万8千9百円を記録。当時は日本も会社も個人的にも絶好調だった。バーンスタインのコンサートに家族で行くなど、今では考えられない。

今は、年金生活。コロナの影響もあるが、旅行、コンサート等にでかける気がしない。
そんな中、松山英樹君のポロシャツを貰って、たまにはゴルフにでかけるか!グレンドロナックのウイスキーを口に含んで、イギリスの石畳みの街並みに思いを馳せた。

2021年6月14日月曜日

学園都市「つくば」で快気祝(義弟)



 11日、義弟の快気祝を行った。
義弟は事業家で70才代中盤。昨年末から、入退院を繰り返していたが、今春無事退院した。ガンでないかと心配したが、ガンではなかった。事業の方は息子さんが引き継いでおり、コロナ下でも売上げは平年時の90%以上を維持しているというから立派である。
 山北(神奈川)にいる弟も馳せ参じた。毎年、年末行っ

ている「兄弟会」も兼ねての快気祝である。義弟は日頃からあまり酒は飲まない。ましてや病み上がりである。義弟の快気祝を名目にした私と弟の飲み会というのが実態である。コロナ禍というのにけしからん話ではある。
 場所は義弟のマンションのあるつくば市。(写真上・同市エキスポセンター)
 つくば市は研究学園都市である。駅近くの中心部にホテルやコンサートホールがあるが、義弟のマンションはその並び。会食はホテルの日本食レストラン(写真中)だったが、客はわれわれ4人だけだった。コロナでコンサートや会議はほとんど行なわれない。ホテルの利用客は激減していると思われる。
 

二次会を義弟のマンションのゲストルーム(写真下)で行う。
 「兄貴」「兄さん」と煽てられ、スッカリいい気分になってしまった。
いつものことながら、義弟と妹には申し訳ない。
 
つくば市。人口248,000名。研究機関300以上。研究者20,000名。博士取得者7,200名。外国人133ヶ国、7,500名。人口増加率1,3%、全国1位。



2021年6月7日月曜日

母(104才)の最後の電話・・・



 先日、秋田の実家にいる兄からの電話がかかってきた。
「母さん特養に移ってもらった。特養で生涯を終えることになる。コロナもあり、特養は面会謝絶。もう母さんには会えないからな」というものだった。「もう、コミュニケーションはとれないの?」「スマホを持っているわけでもないしムリだな」「手紙は?」「あ、それはあるな。意識はハッキリしているし、字も読める」
 秋田にいる姉の話によると、今まで、土日は家に帰りたいといっていた母は最近それを口にしなくなったという。兄夫婦に迷惑をかけたくないためだという。食も極端に細くなり、体重は20数キロしかない。できるだけ食事をとらず、早く来世に行きたいという思いがあるのだという。
 100才の誕生祝いの時、「早く父さんに迎えにきて欲しいと思ってるけど、なかなか迎えにきてくれない」と嘆いていた。1999年、父は86才で亡くなった。それから22年も経っている。
 最近、母に会ったのは2019年10月である。施設で会うことができた。2020年9月、施設に行ったがコロナで会うことができなかった。このことを気にしていたのか、今年の1月母から電話をもらった。「俊だが、元気だが・・・」その声は弾んでいた。ままならない指先でダイヤルを回したのだと思う。自分の力で電話をかけ、通じたという達成感が感じられた。兄の電話からして、この時の母の声が最後になるのは確実である。
 昨日(6日)母に手紙を書いた。「私も今はコロナで外出ができず、母さんと同じく、回想の日々です・・・」。幼少の頃、泣き止まない私を母は土蔵に入れた。小学校まで寝小便をしていた。分家の女の子をいじめて「いくら本家でもひどい」と怒鳴り込まれた。高校時代高熱を出し、母は下宿先に飛んできた。秋田のデンカ(TDK)に就職した時は毎日4時起きして送り出してくれた。結びをどうしようか?迷った。「コロナを克服して東京オリンピックを見よう」ということにした。東京オリンピックを共通の目標にしても不自然さはなかった。79才、私も立派な老人になっていた。
 母、チヨミ、1917年(大正6年)生まれ。8人姉弟の長女。19才で父と結婚。5人の子供を育てた。孫14人、曾孫32人、玄孫1人。(写真は父と母)
 
 ところで、今日、やっとワクチンの予約がとれた。接種日は6月26日である。