2024年12月31日火曜日

名医との出会い。

 2024年も今日で終りです。
私の住んでいる刈谷地区は2千世帯ほどあるのですが、N医院一つしかありません。
一昨年、集団検診に行った時、血圧が150を超えていたため、N医院に行きました。N医師は血圧を測り、胸と背中に聴診器を当て、血圧降下剤オルメサルタンを服用するよう処方してくれました。そのお陰で、昨年は血圧は120に下がりました。
11月、そのN医院が廃業してしまいました。理由はNさんの高齢と体調不良でした。そういえば、今年後半頃から血圧をはかるために、私の腕の着衣を上げて、チューブを巻く時の動作が辛そうでした。
止むなく私は家から2キロほど離れたⅠ医院の門を叩きました。Ⅰ医院のスタッフ、設備の違いに驚きました。血圧は専門の看護師が担当。着衣のまま測定。血圧は130。医師のⅠさん、年齢は70才くらいですが、N医師とは比較にならないほど元気溌剌。N医師が出した処方箋と、昨年の集団検診表を見ながら、「血圧降下剤、必要ですかね。晩酌はやりますか」「缶ビール一つと、その後、ウィスキーを少し」「ウィスキーはワンフィンガー、それともツーフィンガー」。私にとってワンフィンガー、ツーフィンガーという用語は懐かしいものだった。銀座のバーカウンターのマスターの顔が目に浮かんだ。その後も「お父さんは高血圧でしたか」等、次々に質問する。
Ⅰ医師の出した結論はこうだった。「降下剤は出しません。毎朝、血圧をはかり、130を超えるようになったら、またお出で下さい」。診察料は初診料も含めて880円だった。N医院では毎回1,500円ほど払っていたので驚いた。
Ⅰ先生は「検査結果だけではなく、患者の生活習慣とか、顔色、話ぶり等を加味して診断結果をだしている」と感じた。年末に名医に出会ったと思った。
 私は月、水、金はグランドゴルフをやっているが、グランドゴルフのない日は、白鳥の姿を見ながら散歩をしている(写真)血圧が130を超えることは当分ないだろう。
来年も元気に過ごすことができそうだ。


2024年12月27日金曜日

2024年トピックス/半導体産業・東北湧く

2024年が幕を閉じようとしている。
今年の新聞記事で記憶に残ったのは3月11日付けの読売新聞。「半導体産業・東北湧く」である。
「半導体産業で湧く」で全国的に有名なのは、台湾大手の半導体メーカー「TSMC」の工場が進出した熊本の菊陽町が有名。同町は人口約4万3千名だが、同町を中心に2022年から10年間で進出企業は90社、雇用は1万人以上、7兆円近い経済波及効果が熊本県内に生じるという。
「半導体産業・東北湧く」を読む。経済産業省によると、2021年の日本の製造品出荷額のうち、東北6県が占める割合は5,8%だが、「電子部品・デバイス・電子回路」は16,9%に達するという。21年の出荷額は2兆円を超え、従業員数は7万名に達するという。
北上市を例にとると、半導体メーカー、キクオシアが一兆円をかけて新製造棟を整備中、電子部品メーカー、TDKが5百億円を投資して新工場を立ち上げた。東北道には東京エレクトロン、トヨタ自動車東日本、荏原製作所、AGC、東京応化工業等が点在し、投資を続けている。
日本海側に目を向けると、秋田では洋上風力発電所が軌道に乗り、やはり半導体メーカーの進出が見込まれているという。
半導体の生産には土地や電気、水だけでなく、優れた人材が必要。東北人は真面目でぶれずにやり通す気風がある。
農業と林業が主体だった東北地方は、これからは半導体産業を軸にしたハイテク産業の拠点としても発展しつつあるという。

2024年12月21日土曜日

美音の陰に壮絶な企業ドラマ/伊藤瞭介・元サンスイ社長

14日のブログで「ステレオ時代」neo7号の話をしたが、この号のメイン記事は「あの頃のサンスイは今でも私たちを魅了する」(特別インタビュー)”山水電気元社長・伊藤瞭介氏”である。
伊藤氏は1938年東京生まれ。成城大学経済学部卒。1961年山水電気入社とある。山水といえば私のような昭和世代にはオーディオの名門として憧れのメーカーである。山水はパイオニア、トリオと並んでオーディオのご三家と呼ばれた。
伊藤氏が山水に入社したのは大学時代、山水のトランスの音に感銘を受けたからだという。営業部門から商品開発部門に異動。この時、米国出張。スピーカーの名器JBLと出会う。伊藤氏はJBLのサウンドを一言でいうとセクシーな音だという。伊藤氏はJBLと総代理店契約を結ぶ。1973年JBLのユニットを使用したスピーカーを発売し、これがロングセラーになる。売上も年間500臆を越した。
伊藤氏はサクセスストーリーの一方、「あまり思い出したくない話だが」と前置きして、労組問題を語る。「サンスイの労組対立は1973年頃がピークだった。会社に国労(国鉄労働組合)が入ってきた。工場に赤旗が立ち、それがサンスイの体力を奪っていく。事業部長なのに自分の仕事はほとんど労組対策だった」「私が社長の時、負債の返済に窮しサンスイを外資に売った。企業の伝統文化や理念の継承は困難だった。めちゃくちゃになった」
伊藤氏は1990年山水退任後、1997年、風力発電メーカーを設立。世界最軽量の汎用小型風力発電システムを開発し、経済産業大臣賞を受賞した。

2024年12月14日土曜日

わが人生の掉尾を飾る2大特集企画/ステレオ時代neo7号発売

 今朝、アマゾンを開くと「ステレオ時代」neo7号の発売記事が掲載されていた。
「ステレオ時代」は澤村編集長と1~2名のスタッフで取材を行っている。他のオーディオ誌のようにオーディオ評論家は登場しない。
音楽・オーディオ誌の名門というと音楽の友社があるが、同社で出版している「レコード芸術」は休刊。「音楽の友」は不定期という厳しい現状である。「ステレオ時代」には澤村編集長の取材記事に固定読者がついているのが、継続出版できている要因だと思われる。
「ステレオ時代」は他のオーディオ誌と比較するとカセットテープオーディオに関する記事が多いのが特徴である。私はTDKでカセットテープの商品企画の仕事をしてきた関係で澤村さんには随分お世話になった。
7号には「カセットテープの頂点、MA-R誕生の真実」と「世界初の音楽カセット、TDK SDカセット開発こぼれ話」が掲載されている。私が現役の頃、お世話になった技術者の方に登場していただいた。技術者の話を聞いて、今さらながら技術の重要性を認識した。その方々を相手に当時、こんな音のカセットを作ってくれとお願いをしていたのである。なんと恥しらず、世間しらず、と自分を恥じた。
当時、技術者の方から、「音楽やオーディオを学んでない畠山をどうして商品企画の責任者
にしたんだ」と私を起用した上司は聞かれたという。その時、上司は「畠山君はセンスがある」と答えた、私が商品企画の責任者になれたのは「ご縁」としかいいようがない。私も82才。澤村さんとの取材共同企画もこれが最後ではないかと思う。その掉尾を飾る2大企画だった。
(写真は「ステレオ時代」neo2号の取材風景。右が畠山。TDK本社にて)




2024年12月11日水曜日

パソコンクラブ来年も続けよう!ビールの魔力


3年前からOBの組織である社友会パソコンクラブの幹事になった。
私は技術者ではないし、パソコンに詳しいわけでもないのだが、会長が現役の頃の上司で、私を幹事に推薦した。私のような素人が一人いても良いのではないかと思ったのではないだろうか。最盛期は月例会に20名ほどの参加者がいたというが、最近は6~8名であり、参加者の減少を食い止めたいということもあったと思う。
幹事になって思ったが、月例会のテーマがなかなか見つからない。今さらワードでも、エクセルを学ぼうでもない。また、今はパソコンではなく、スマホの時代なのである。私のようにPCデポに入会して、パソコンやスマホの操作に困ったら、彼らに相談して解決してもらうというOBもいる。
事務局を担当しているⅠさんは昨年からZOOMを導入して、ネットでも参加できるようにし、60名の登録メンバーに参加を呼び掛けているが、ほとんど反応がない。登録メンバーが高齢化しているのである。
衰退一方のパソコンクラブの忘年会が10日、13時~秋葉原の「銀座ライオン」で開かれた。Ⅰさんは、内心で今年の忘年会を最後にパソコンの事務局を降りようと思っていた。集まったメンバーは8名。なんと会長が都合で欠席。幸い前会長のNさんが参加。ビールで乾杯すると俄然話は盛り上がった。Sさんが、社友会の新年会もいいが、このような小人数の方が面白いね!予定の2時間はアッという間に経過。Ⅰさんの「来年もパソコンクラブ続けましょう!」で幕となった。ビールの魔力は凄い!

2024年12月8日日曜日

義弟は妻の17音の宝石箱の中で生き続ける。

義弟、伊藤猛さんが亡くなったのは今年の5月だった。75才。私が見舞う間もない急死だった。謙虚で聡明な義弟だった。
昨日、ピアノの上に「対岸」という本が乗っていた。短歌・随筆の同人誌だった。妻がこんな本に興味があるのかと不思議だった。開いて見てわかった。義弟の妻、伊藤美津子さんが妻に送ってきたものだった。
「対岸」を開くと”創刊38周年記念コンクール作品入選発表”とある。俳句の部・最優秀賞1篇「蛍」伊藤美津子とある。15作からの5作を拾う。
 
 もう少し生きたし蕗の薹苦し
 夏椿ぽとりと白き命なり
 まだぬくき御魂との帰路月曨
 黒服の汗の真珠外しけり
 秋田杉のやうな人逝き虹立てり

「私は一連の作品を読んで命の悲しさを思った。その哀しみを強く押さえている。抑えて抑えて抑えきれない悲しみが17音になったような作品群であった」選者、今瀬剛一氏はこう評している。
今まで美津子さんが俳句を詠んでいたとは知らなかった。葬儀を耽々と仕切っていた美津子さん、その心の内には抑えても抑えても抑えきれない悲しみがあったことを知った。美津子さんは受賞の言葉の中で「私にとって俳句は宝石箱のような物」と語っている。17音の中で今後も猛さんが生き続けるのではないか。と思うとホッとした。

2024年12月5日木曜日

レクサス最高級車で箱根へ

2日(月)、9時、「ピンポン」とドアのベルが鳴る。
ドアを開けると義弟の笑顔。玄関前に大きな車が停車している。義弟が運転手付きの高級車で迎えにきたのである。後部座席に座ると、車は音もなく滑るように走りだす。「いや、凄い車だね。いくらしたの?」「トヨタの高級ブランドレクサスです。価格は千9百万です」「えっ!」と驚く。月曜日ということもあり、牛久から3時間で箱根に着く。驚いたのは3時間乗ったのに全く疲労感がない。家でソファーに座ったまま箱根に着いた感じである。走行安定性、気密性抜群なのである。
芦ノ湖湖畔で昼食を済ませ、箱根神社を参拝し、海賊船に乗る。義弟が特別船室のチケットを買ってくれた。海賊船はご覧のように外人客も含めた乗客で満席。4時ホテルに入る。山北に住んでいる弟が先着していた。風呂に入り、6時~夕食。妹に運転役の森川さんの5人での宴席になった。名目は「兄弟会・忘年会」。小生は会費1万円で、送迎付き。ありがたい身分である。
翌3日は大涌谷に行ったが、晴天に恵まれ富士山が美しかった。次いでガラス美術館に案内していただき、同館で昼食を。ピアノ演奏付の素敵なレストランだった。
箱根は見どころも多く、日本一の観光地といって良いのではないか、と認識を新にした。しかし、レストランにしても、ホテルにしても高い。茨城在住の小生は驚くばかりである。格差社会を実感した一時でもあった。
1時過ぎ、箱根を後にしたわれわれは牛久に3:30到着。旦那がお世話になったというので、家内が手製の「おはぎ」を作って待っていた。豪勢な箱根旅と比較するとわが家は質素である。「兄さん、来年は軽井沢に行きましょう」といって、義弟はレクサスに乗り込んだ。


2024年11月29日金曜日

アマゾンのクレーム対応は完璧だけど、高齢者には・・・。

コードレス掃除機が壊れてしまった。ダストカップを開けて、吸い込んだ塵埃を取り除き、再びセットしようとしたところ、接合部のプラスチック部分が破損してしまったのである。修理に出そうと思ったが、この掃除機、実は昨年3月、アマゾンで7,999円で購入したものである。1年以上使用したので、元がとれていると思い、新品を購入することにした。

アマゾンを検索してみると5,000円くらいのものもあるが、故障すると困るので9,980円の商品を購入することにした。(写真・上)やはりコードレスである。一度コードレスを使用すると、ケーブル付を使用する気にならない。

20日、夕方注文したら、翌日には着くという。しかも送料無料である。アマゾンは本当に凄い。21日、夕方到着したので、充電し、充電ランプが消えたので、充電が終えたと思って放置。23日(土)、家内が「お父さん、掃除機動かないよ」という。作動スイッチを入れても、電源コードを差し込んでも電源ランプが着かない。

品質保証カードを見たが問合せの電話番号がない。QRコードがあるだけである。スマホでコードを読み込むと土日は休みだという。25日、QRコードで読み取るとラインで問合せるようになっている。82才の私、ラインなんてやったことがない。また、スマホはキーボードが小さくて操作が難しい。「スマホは使ってないので、パソコンのメルアドにアクセス欲しい」と打込む。パソコンを見ると、メーカーのサービスから「ご迷惑をおかけします」とうメールが入っていた。結論として「新品を送ります」ということだった。27日、新品が届いた(写真・上)。無事作動。私も家内もホットした。

通販(アマゾン)の場合、手軽なのはいいが、困るのはトラブルが起きた時である。「安物買いの銭失い」になるのではないか?と不安になる。しかし、今までの経験ではアマゾンのクレーム対応は万全である。ただ、私のようにスマホを使い慣れていない高齢者にとっては電話での問い合わせ先がないというのは不安である。これからは高齢者もスマホを使いこなせということなのだろう。健康保険証もなくなるという時代である。

2024年11月21日木曜日

老人クラブの宴、鮎バス旅行/孫娘の一言

11月14日は刈谷シニアクラブの「秋のバス研修旅行」だった。研修とは名目で、参加者の目的は、烏山落石観光やな・ひのきやでの鮎料理を食べながらの宴である。
8:00自治会館前出発。参加者36名。市の大型バスなので、2人分の座席を一人占めして王様気分。天気は雲一つない秋晴れ。つくば牛久インターで常磐高速に乗り、那珂インターで降りて一般道へ。栃木県烏山を目指してひた走る。観光やなやに11時到着。
すでに囲炉裏には赤々と輝く炭火を串刺しされた鮎が囲んでいる。老人達が意気込んで囲炉裏を囲む。ビール瓶が配られ、日本酒の一升瓶の口が空く。「それではいいですか乾杯の音頭を長老の酒井さんお願いします」87才の酒井さんがコップを掲げて「乾杯!」。この為に3時間かけて烏山まできた老人達は無言で酒を飲み、鮎料理を頬張る。
一息付いたところで、自己紹介タイムとなる。男女がお互いに相手を指名し、氏名された老人は自己紹介をし、近況を語る。私を指名する女性は現れず、私が自己紹介のトリを飾ることとなった。「幹事の皆さんありがとう。佐竹の殿様が茨城の美人を秋田に連れていったので茨城には美人がいないといいますが、そんな事はありません・・・」とかなんとか、言ってましたね。
帰りは近くのリンゴ園に寄って、5時に牛久着。
自宅に帰ると久しぶりに娘が2人の孫を連れてきていた。テレビに環境問題国際会議のニュースが流れている。「トランプが大統領になると国際会議も大変だな」と呟くと「爺ちゃん、トランプは自分の代は影響がないから勝手なこと言っているのよ」「そうか、なるほど」とうなずく。孫娘ももう大人だと実感。

2024年11月13日水曜日

渡部さんの”プロジェクトⅩ”「大気汚染と排ガス処理技術」


地元の飲み仲間、渡部輝雄さんから本をいただいた。
「大気汚染と排ガス処理技術」という技術専門書である。
渡部さんは1941年生まれというから今年83才。一杯飲むと、「オレは会津若松の落ちこぼれ」と語るが、そんなことはない。本を見ると謙遜だとわかる。
1965年3月、中央大学理工学部工業化学科卒業。学士論文の指導は東畑平一郎教授とある。1986年3月、住友重機械工業(株)化工機事業部入社。集塵装置の設計を担当。1978年6月~乾式脱硫脱硝装置の設計および活性炭の開発担当1998年10月、日本吸着学会より技術賞受賞「活性炭を循環使用し排ガスからダイオキシンを除去する技術」。2001年6月、住友重機械(株)退社。
「大気汚染と排ガス処理技術」は次の3章からなる。
第一章 神武景気(1954~1957)、岩戸景気(1958~1961)/大気環境と集塵技術
第二章 いざなぎ景気(1965~1970)/大気環境と脱硫・脱硝
第三章 ダイオキシン類対策特別措置法(1992)/大気環境と炭素利用技術
渡部さんは日本の高度経済成長に伴う大気汚染のもとになる塵埃、排ガス、ダイオキシンと格闘してきた、この本は渡部さんの「プロジェクトⅩ」である。渡部さんは必ずしも体調万全とはいえない状況の中で、この本を上梓した。その会津魂に敬意を表したい。身近な例として、わが町牛久にもクリーンセンターがある。そのお陰で、わが町の環境が守られている。その陰には渡部さん技術力が生きているのである。渡部さん、出版を祝して一杯やりましょう。
 

2024年11月8日金曜日

38年ぶり、世界最高峰ウィーンフィルを聴く


 昨日は特別な日だった。
世界最高峰のオーケストラ、ウィーンフィルを聴いた。
午後4時、自宅出発。会場であるミューザ川崎シンフォニーホールに向かう。
ウィーンフィルを聴くのは何年ぶりだろう。日記を見ると、37年ぶりということになる。
若い頃は良くコンサートに行った。子供達にもコンサートを味わって欲しいと連れて行った。秋田の兄貴もクラシック好きだったので、お付き合いで聴きに行った。
しかし、コンサートの値段も高くなった。1987年頃にはウィーンフィルの来日公演のチケットが1万9千円と、2万円近くなった。意欲がなくなった。
今回のウィーンフィルのチケットはS席45,000、私が買うことができたB席は35,000。そのうち耳も聴こえなくなるに違いない。冥土の土産のつもりで買った。買えて良かった。その後、プレミアムが付いて、8万円になったプログラムもでた。
会場に着くと、「完売御礼」のポスターが貼られていた。川崎市市制100周年記念事業&ミューザ川崎シンフォニーホール開館20周年記念公演とある。
座席は4階の天井桟敷。3万5千円でこの席か。オーケストラが豆粒のよう、勿論、指揮者の表情は分からない。
でも、ウィーンフィルのまろやかな音は天井桟敷にも届いた。素晴らしい経験だった。驚いたのはなんと、アンコールにウィンナワルツを2曲も演奏してくれた。会場は沸きにわいた。毎年、ウィーンからテレビ中継されるウィーンフィルの「ニューイヤーコンサート」そのワルツが、日本でナマで聴けるなんて思わなかった。バンザーイ!と叫びたくなった。こと年まで生きていて良かった。また明日からがんばろう。ネルソン指揮のウィーンフィルに乾杯!

2024年11月1日金曜日

水素車 トヨタMIRAI で帰宅

昨夜(10月31日)は、ハイソサェティの集いだった。
都内の会場に集まったメンバーは20名。小生を除いて、一流企業の幹部OBの集いだった。
彼らの話を聞いていると、「ドジャース・大谷の試合を見にロスまで行きましたよ」「ヨットが趣味なんですが、陸地が見えなくなると不安ですね」「明石家さんまの番組にでたんですが、さんまさんに先生と呼ばれて、照れましたね」・・・メンバーの中に年収が1億を超える方が3名いた。
小生はこの会の幹事の依頼で「カセットテープを初めて発売したメーカーはどこか?50年ぶりに分かった真実」いうテーマで15分ほど話をさせていただいた。幸い皆さん関心を示して下さりホッとした。
帰り、大企業の外部取締役役員だというA氏が、帰宅の方向が同じなので、私の車に乗りなさい。と誘って下さった。玄関口に止まっていた車は、トヨタのMIRAIではないか。日本で、数えるくらいしか走っていないCO₂排出量ゼロという水素車である。
A氏は車中でいろいろ話をされた。「やはり中国が心配です。中国との取引が多いので習近平体制がどうなるかですね」「生成AIがこれからの日本経済にどういう影響を与えるかですね」「グローバル指向の中で、経営のやり方が、ゼネラル化、画一化していく傾向がある。私は日本ならではの経営のやり方があると思うんですがね」「政治家のものの見方は短期的でいかん」A氏は私と同じ82才。現役経営者として押し寄せる課題に立ち向かうA氏の気迫に圧倒された。
「畠山さん、牛久まで乗って行って下さい」お言葉に甘えて、MIRAIでわが家に向かう。
下車する時、運転手さんが後部座席を開けて下さった。それは建売のわが家と不釣り合いなマナーだった。(乗車したMIRAIの車体は黒だった)




2024年10月26日土曜日

民謡王国、秋田/首都圏秋田県人連合会70周年

 24日、昼食後、東京へ。今日は浅草で「首都圏秋田県人会連合会創立70周年記念・ふるさと秋田芸能まつり&懇親会」がある。
秋田芸能まつりが行われている浅草公会堂に着いたのは3時近くだった。この芸能まつり、第一部がはじまったのは10:30分である。秋田県出身(首都圏在住)の芸能自慢100名近くが出演。私が聴いたのは第三部の終り近く。秋田とえば民謡である。三味線、尺八、太鼓の伴奏で民謡自慢の方々が次々に登場。(写真・上)秋田おばこ、秋田船方節、秋田長持歌、秋田馬子歌、本荘追分…幼少の頃、聴いた民謡が次々に歌われる。懐かしさで胸が一杯になった。
一番感動したのは「秋田の伝統と文化を学ぶ会」が演じた「西馬音内盆踊り」、深い編み笠、黒い頭巾で顔を隠した、秋田おばこが躍る盆踊りは妖艶である。(写真・左)この盆踊り、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。東京でその片鱗に触れることができたのは幸運だった。
芸能まつりが終了したのは4:20,懇親会がはじまるのは6:00,この間隙を縫って、「東京スカイツリー」に登る。多勢の外人観光客に混じって、展望台から東京の夜景を見る。(写真・右)
懇親会の会場は浅草ビューホテルだった。参加者は70名ほどで、ほとんとが、芸能まつりに参加した方々。その方々の余興を見、聴きながらのお酒を楽しむ。私の隣の席は「新庄節」を歌った矢口さん。「新庄なば、秋田と兄弟だ」「んだすな。一山超えれば山形だ」。矢口さんと来年の再会を約して会場を後にした。

2024年10月16日水曜日

憲法は「ウソをつかない」の1行で良い/住井すゑ

 
先週の後半は高密度のスケジュールだった。
10日(木)笠間の常陸国出雲大社へ。宮司と弁護士の打合せに同席する。「先生、この案件、引き受けていただけますか」と宮司。「う~ん、どうするか、組立ててみましょう」と弁護士先生。東京の偉い弁護士を笠間まで呼びつけるのだから宮司はただものでない。
11日(金)TDK本社へ。カセットテープの頂点といわれる「MA-R」(写真・上)を開発した石田俊彦さんの取材である。「ステレオ時代」の澤村編集長がカメラマンを帯同してかけつける。この商品、私が商品企画の責任者だった時代に開発された商品だが、石田さんの部品一個一個に心血を注いだ苦心談を聞き、「採算を度外視しても良いから最高のモノを作ってくれ」と号令だけかけていただけの自分が恥ずかしくなった。
12日(土)音楽グループ、龍ヶ崎ゲヴァントハウスの例会。音楽評論家・金子建志先生の講演会。演目は「生誕200年のブルックナー」。終了後、親睦会。(写真・左)隣の席に座った滝沢さんに「お父さんお元気ですか」と声をかける。滝沢さんのお父さんは、私と同じ昭和17年生まれである。
13日(日)前日、ゲヴァントハウスの例会に参加した弟を「牛久市住井すゑ文学館」に案内する。住井さんは「牛久沼のほとりで」という本の中で、憲法は「ウソをつかない」という1行だけで良い。と書いている。住井さんは平成9年6月16日、95才で旅だった。代表作は「橋のない川」。


2024年10月9日水曜日

高倉 健、没後10年展「高倉 健に、なる。」

 昨日(8日)は雨だった。でも「TDK社友会パソコンクラブ」の例会があるので東京へ行かなくてはならない。小生パソコンオンチなのに幹事なのである。
当日の朝、読売新聞本社で「高倉健、没後10年展」が開催されている、ということに気がついた。「まだボケてないな」パソコンクラブは昼から。没後10年展は10時から。シメシメである。8:30分出発する。
読売新聞本社は大手町にある。東京駅から徒歩15分。立派なビルである。ビルに入って驚いたのは吹き抜けのロビーに「読売巨人軍リーグ優勝おめでとう」の垂れ幕が下がり、いたる所に、お祝いの花が陳列されていたこと。(写真・下)祝の樽酒もズラリと並んでいた。
エレベーターで三階のホールに着くと、その一画がギャラリーで没後10年展の展示場だった。「八甲田山」「幸福の黄色いハンカチ」「南極物語」「鉄道員(ぽっぽや)」「網走番外地シリーズ」「君よ憤怒の河を渉れ」「野生の証明」「動乱」「駅」「あなたへ」「ホタル」・・・。
高倉健は男が惚れるほど格好いい。そして、あの孤独感がたまらない。没後10年展には愛用のサングラスや、グッチの旅行鞄、書き込みの入ったシナリオなどが展示されていたが、撮影禁止。
高倉健の映画は何度でも観たい。観ると、いつも、生きることの味わい深さを感じ、勇気が湧いてくる。(高倉健、2014年11月10日歿。83才)


2024年10月5日土曜日

TDK元社員を公安部が書類送検!電子部品「MEMS(メムス)」とは?

今朝、新聞を広げ、「TDK営業秘密持ち出し」の大きな見出しに、TDK・OBの小生はビックリ!いろいろな思いが頭を過った。
私が勤務していた昭和時代はカセットテープが花形。電子部品部門は松下さん、東芝さん等セットメーカーさんの要求に合った部品を作っていた。従って、警視庁公安部の捜査対象になるような先端技術にはタッチしてなかったように記憶している。
 現在の日本の電子部品業界は世界の最先端を走っている。半導体産業ほど規模は大きくないのでのマスコミにでる機会は少ないが、日本が誇る産業である。
 今回、元TDK社員が退職前に不正に持ち出したのは電子部品「MEMS(メムス)」の開発データだという。MEMSとはMicro Electro Mechanical Systemsの略で、機械要素部品、センサ、アクチェータ(電気信号を物理的運動に変換)、電子回路を一つのシリコン基板、ガラス基板、有機材料の上に微細加工技術によって集積化したデバイスである。
 スマホが小型化、高性能化し、自動車が自動運転となり、ドローンが空中を舞う現代だが、その陰には半導体と並んでMEMSの貢献があり、中国等から大きな注目を浴びている。

写真・上はTDK/MEMS商品の一例。極超小型スマホ用MEMSマイクロホンの内部構造である。サイズ2~3ミリ、厚さ1ミリのマイク(左)と内部構造。音圧が音孔からキャビティに伝わると、振動板が動いてバックプレートの電極との間の静電容量が変わる。これを信号として検出する。



2024年9月29日日曜日

技術者の鑑、石田俊彦さんの取材決定

9月も終わろうとしている。
今月、嬉しかった成果は「ステレオ時代」誌の取材が決まったことである。
8月6日、TDK社友会・千曲川支部の納涼会に参加。カセットテープづくりを一緒にやった技術者や生産部門の方々と35年ぶりに再会した。この模様をブログに掲載した。このブログを見た「ステレオ時代」澤村編集長から、当時の技術者の取材したいので、是非プロデュ
ースして欲しいとの依頼があった。
交渉の結果、カセットテープのシンボル商品であるMA-R用ハーフ「RSメカニズム」(写真・右)を開発した石田俊彦さんに参加していただけることになった。
石田さんは上智大学理工学部機械工学科卒業。船舶用エンジン開発を夢みたが、実現せず、TDKに入社した。RSメカニズムには、石田さんが学生時代に学んだ工作機械のアイディアが盛り込まれている。
石田さんは3才で母親を失った。以来、今日まで「自己実現」に向けて努力を続けている。定年後は佐久地区の技術アドバイザーとして、同地区の中小企業の指導にも当っている。
石田さんは謙虚な方であり、現役の頃は自己実現に信念を燃やす方だとは思わなかった。今まで聞けなかったような深い話を澤村さんが引き出してくれると期待に胸はずむ。
取材は10月11日、TDK・日本橋本社で行われる。「ステレオ時代neo7号」(⒓月16日発売予定)に掲載される。(写真・上)佐久市の隣、小諸市にある「島崎藤村記念館」

2024年9月23日月曜日

美女の前髪をつかめ!(後編)補聴器はマダマダ、自転車仲間の殿堂(電動)入り。

 
76才、77才、82才のシニア熱血漢でもやはり最後は体力の衰えに話が及ぶ。ところが、さすが工学部ご出身のSさん、Tさんの話は理論的である。
76才のSさん、「補聴器を試してみたんですがね、通常聴こえないノイズが入って、こんなもの使えるか」77才のTさん「そうでしょう。ボクも無料貸し出しというのを何点か取り寄せてみたんだがダメ。補聴器はまだ課題が多い」。
良く考えてみると、人間の耳の発達過程には3段階あるように思う。生まれたばかりの第1段階は物理的に音を感じるだけ。第2段階は判別レベル、つまり母親や父親の言葉がわかるようになる。第3段階が感性レベル。歌を聴いて上手下手がわかるようになる。耳と頭脳は連動していて、成長とともに複雑な音が判別できるようになる。多分、初期段階の補聴器は、会話も周辺ノイズも一緒に大きな音量にしてしまうから使いものにならない。理想をいえば、一人一人の感性に合った補聴器が必要なのである。が、現実には痴呆が進めば、人間の感性が衰えて、多少ノイズがあってもバアさんの声が聴こえれば良い、ということになりそう。ということで3人ともこの先、補聴器のお世話になると思う。
Tさんは、定年後、自転車でシルクロードを縦断したという自転車ツーリストのベテランである。(写真)ママチャリスの私は「空気不足の時と満杯の時では全然走りがちがいますね」とバカな質問をする。「空気不足の時は路面との接触面積が大きくなるから抵抗が大きくなるんです。パンクの原因にもなりますよ」。空気をパンパンにするとパンクしやすくなると思っていた技術オンチの私は目からウロコだった。
Tさんの自転車仲間も最近は高齢化し殿堂入(電動)の方が多くなったとか。スイスイと坂道を登って行って、そのまま永遠の殿堂に入る方もいらっしゃるようである。

2024年9月16日月曜日

秋田マドンナも欠席。シュリンクする高校同窓会

 わが母校、秋田県立鷹巣農林高校、令和6年度・第45回・東京伊勢堂会が9月1日、銀座ライオン七丁目店で開催された。わが母校、鷹巣農林は豊かな秋田杉が茂る伊勢堂の杜に囲まれていた。東京伊勢堂会の名称の由来である。
参加者は36名。前回、令和元年の例会参加者は52名だったので16名の減少である。前回華やかさを添えていた伊勢堂マドンナ(写真・上)は、今回1名だった。開会の冒頭、司会の幹事長・本橋さんは、コロナ禍で休会していた5年間に13名の会員が亡くなったことを紹介。黙祷を捧げた。
鷹巣農林は林業科、農業科、普通科、家庭科の総合高校だが、参加者は林業科と農業科に2分されている。しかも、東京へでてきて林業や農業に従事してる方は少ない、自営業や私のように電子部品メーカーに勤務したとか、農林に関係ない仕事で頑張ってきた人が多い。
鷹巣農林は2013年に閉校になったが、東京伊勢堂会が続いているのは岩崎準志郎さん(昭和41年、林業科卒業)の母校愛のお陰である。第45会懇親会も岩崎さんの音頭による「なつかしの応援歌」が銀座に轟いて幕となった。(写真・右)
次回は、オリックスの中嶋監督(昭和62年、林業科)に参加していただき、参加者の減少傾向に歯止めをかけて欲しい。



2024年9月14日土曜日

美女の前髪をつかめ!(前編)熱血シニア集合

13日、土浦のホテルマロウド筑波に3人の熱血シニアが集合した。
3人とはSさん(76才)Tさん(77才)、小生(82才)である。
きっかけはSさんがV社OB会の会長に就任されたというので激励しようというものだった。
Sさん国立大学工学部出身。成績上位だったので、恩師から日立、東芝、NHKにのような大きな会社に就職しなさい、と勧められたのにV社に就職したという大のⅤ社ファン。しかし、入社してみると、その非効率な仕事ぶりに落胆。
V社をなんとか立て直ししたいと労組の執行委員長になって経営者と対峙したというから凄い。どの経営者も頼りなかったが、業界でも名経営者といわれたT氏の言葉は忘れないという。それは「美女の前髪をつかめ」というもの。つまりビジネスで成功するためには、後を追っていても追いつかない。他社の先を行け!ということだった。
Sさんは結局、V社を退社。日立に転職。日立に就職して驚いたのは①会議は5分前集合。たとえ社長に呼ばれても会議があると断る②主催した会議の議事録はその日のうちに仕上げる。V社にはない厳しい社風だったという。V社を見限ったSさんだが、定年後、Ⅴ社OB会の会長に祭り上げられたのだから縁とは不思議なもの。SさんはミスターVなのである。
 Tさんも国立大学工学部出身。年間売上3兆円とう優良企業OB。入社同期の交遊録を出版。母校(高校)OB会の支部長に就任。支部活動のモットーは「一人ボッチを出さない」。同校出身落語家の支援もやっている。「15日の”新婚さんいらっしゃい”に立川志のぽんが出演します」と結んだ。
82才の小生といえば広報活動一筋。現在、理不尽な広報活動している会社があり、場合によっては「意見広告を出す」と息巻くと、Tさん「恐ろしい」と笑う。
ホテルマロウド筑波の13階の展望レストランは素晴らしい。(写真・上)ランチも前菜(写真・左)にスパゲッティ、食後のコーヒー飲み放題で¥1,800だった。ところで、土浦駅から徒歩15分のホテルなのにどうして”筑波”と付いているのだろう。




2024年9月5日木曜日

うまくできた障子貼り。ツゲはトラ刈り。

 
7月から8月にかけて、屋根、外壁の塗り替え、テレビドアホンの交換、クーラーの増設と、工事が重なった。この際、和室の障子の張替えもやろうと思って、見積もりをとったら高かったね。幅広クーロン紙 @12,000×2枚=24,000+現場配送費一式10,000、合計¥34,000
いくらなんでも高いと思い、自分でやることにした。障子紙+ノリ代=¥3,000でできあ上がった。
自分でやるのは結構楽しい。思いの他うまくいったのは古い障子紙の剥がし。水で濡らしたところ、ロール状に綺麗に剝れました。障子の桟が十分に乾いてからノリ付け。昔は刷毛で桟にノリを付けていたが、今はチューブにガイドの付いた専用のノリがあり、桟にガイドを合わせてチューブを絞るだけなの簡単。出来上がりはプロがやったような仕上がりになった。
わが家は隣家との間にツゲの目隠しがある。新芽が50センチほど伸びてきたので、剪定をした。剪定に当たって一番注意したのは、梯子からの転落。ツゲの高さは3mあるので、梯子に登って移動させながらの作業になる。出来上がりはプロ並みとはいかない。ご覧の通りのトラがり。
気がついたら、風呂桶のフタのフチが黒づんでいる。床や壁は都度掃除をするが、風呂桶のフタには気づかなかった。カビキラーを吹き付けて水洗い。これを3回ほど繰り返したら、綺麗になった。それが済んだら、綺麗だと思っていた壁や床の一画もカビで黒ずんでいるのに気がつく。

庭の草はとってもとっても生えてくるし、日々やることに事か欠かない。


2024年8月29日木曜日

なに、牛久でオペラ「アイーダ」をやる?

8月は迷走を続ける台風10号で幕を閉じようとしている。
8月は株の大暴落ではじまった。株の利益を遊交費に充てている老人にはショック。まあ、生活が引き締まっていいか。と思っていた9日、音楽仲間の集い、龍ヶ崎ゲヴァントハウスのホーム頁を見たら「牛久のアイーダ」という案内に出会った。
 なに、わが町・牛久でヴェルディのオペラ「アイーダ」をやる?人口8万の町でオペラをやるの、信じられん。入場料は6千円だという。主催者は何を考えているのだろう?お客さん何人入るかな?良くて500名、300名くらは入るかな。6千円の臨時出費は大きいが、11日(日)2時、会場の牛久市の文化ホールにかけつけた。驚きました。駐車場が満杯。会場に入ると900席(1階)が埋まっている。和服を着たご婦人もおりオペラ気分が充満。
幕が上がると、字幕付きのセミステージ。歌手は日本の一流歌手ということで、朗々と美声が響わたる。有名な凱旋行進曲ではトランペットが咆哮し、40名の合唱団が唱和する。法悦の一時である。
このオペラ、主催は「一番星」、後援がつくば市、土浦市、牛久市の三市である。牛久のオペラといっても実質は茨城県南のオペラファンが支えており、固定客もいるようだ。
オペラといえばなんといってもカーテンコール。ソリスト、合唱団、アンサンブル、指揮者、演出者が何度も呼び出される。東京のコンサートホールにいるような気分を味わった。(写真・右)
ネットには「牛久のアイーダ、片道2時間40分かけて行って良かった!現在日本で望みうる最高のキャストだった。大感動~」という書き込みがあった。この公演を知らせてくれたゲヴァントハウスの加来さん、ありがとう。

2024年8月22日木曜日

パリから東京へ。「2025世界陸上」北口榛花、連続金メダルへ!

8月16日から「2025年世界陸上・東京大会」チケットの先行販売がはじまった。
同大会は来年9月13日~21日にわたって東京・国立競技場で開催される。
チケットの値段が午前のセッションが¥2,500~¥15,000、午後(土日祝)のセッションが¥5,000~¥50,000と聞いて、そんな高額なチケット売れるのかなと思った。昨日、ネットで調べてみたところ、20日、21日、¥50,000のチケット完売とある。あわてて、20日の¥20,000のチケットを購入した。運が良かったといわざるを得ない。今日、ネットで見たところ、21日は全席完売。20日もほぼ完売となっている。
世界陸上は私が勤務していたTDKが第1回ヘルシンキ大会(1983)の時からスポンサーとなっている。第2回ローマ大会(1987)の時は私が担当としてローマに出張した。大会ではテレビ番組ゲストコメンテータの長嶋茂雄さんにもお目にかかった。(写真・右)長嶋さんにとっても来年の東京大会は意義深いものだと思う。20日は男子4×100mの予選が行われる。日本チームは決勝まで進めるか?女子やり投げに北口榛花が登場。パリオリンピックに続いて金メダル有望である。国立競技場に日の丸が揚がり「君が代」が流れる。歴史的瞬間である。

2024年8月17日土曜日

90年前の欧米旅行。東大出身エリート官僚の旅


 知人の小金郁三(いくみ)さんが「アメリカへの旅、ヨーロッパの旅」(百年書房)という本を出版した。小金さんが父の書棚に、父の叔父である小金義照が書いた「アメリカへの旅」「ヨーロッパの旅」があるのを発見。これを復刻したのである。義照は明治31年(1898)神奈川県足柄上郡開成町に生まれた。1922年、東京帝国大学法学部卒業。農商務省に入省。後政治家となり郵政大臣となる。
著書は官命を受けて1934年(昭和9)、船で米国に渡り主要都市を視察。続いてヨーロッパ主要都市を視察した模様を描写したものである。1934年というと3年前には満州事変、前年には国際連盟脱退。第二次世界大戦に向けての時代である。ドイツではヒットラー率いるナチスが権勢を奮っていた。つまり、日本国ここにありに燃えていた時代であり、その国の官僚としての豊穣の旅である。各国の政治・経済事情だけでなく生活、食文化まで描写されている。
「欧州でも、イギリス婦人は重厚味を感じさせる。ドイツには美人が少ないように思えた。特に、ビールを飲んだ女は腰が太すぎて美しいよりも逞しさが感ぜられる。パリジェンヌは概して腰が細い。パリは、やはり、世界第一、女の美しい都であろう」
義照の写真を見るとハンサムである。海外でももてたのではないだろうか。各都市には東大出身の官僚や商社マンが常駐し、義照をシッカリとフォローしている様子が描かれている。
義照はTDKを創立した齋藤憲三の後任として、衆議院科学技術振興対策特別委員長となるが、憲三は早稲田、その人脈は東大卒の義照に遠く及ばないと感じた。

2024年8月12日月曜日

千曲川支部納涼会③TDKカセットの哲学「MA-R」

 
納涼会で私との再会を心待ちにしていたという技術者の一人が石田俊彦さんだった。「畠山さん。見て下さい」石田さんは古ぼけた青焼きのカセットハーフの図面をとりだした。昭和46年(1971)に作成されたカセットハーフと、石田さんが書き起こしたMA-R(1985発売) のハーフ(開発名HX)のアイディア図面(下)だった。

石田さんは理工学部出身。卒業論文は「船舶用ディーゼルエンジンの動弁機構シュミレーションの確立」。TDKに入社して与えられたテーマは「カセットテープ高精度化のための設計を行うこと」だった。

石田さんはカセットテープからオープンテープ並みの音質を引き出すためには、テープ走行の安定性が大事、そのためにはハーフ本体を金属にするという大胆な発想をする。金属フレームはカメラボデーに使われている亜鉛ダイキャストを採用、テープ走行を可視化するために半導体プロセスに使用されているシリコン塗布技術を使用した透明シートを開発。TDKカセットのみならず、世界のカセットテープのシンボル商品ともいえる「MA-R」の開発を成し遂げる。石田さんは「当時は各自それぞれの分野でベストを尽くし、お互いに共振して大きなな成果を上げましたね」。と結ぶ。

 音楽や音響学の専門家でもない私が商品企画という立場で10年間、仕事ができたのも石田さんはじめ千曲川工場の皆さんの支えがあったからだということを身に沁みて感じた。私は定年後もTDKカセットテープの広報(ボランティア)をやらさせていただいているが、これも千曲川の皆さんのお陰である。


2024年8月11日日曜日

千曲川支部納涼会②「世界のカセットTDK」の生産基地

 納涼会が開催される佐久グランドホテルの最寄駅である小海線の中込駅についたのは5:35分。開会の6時まで間がない。駅舎を出ると「やあ、畠山さん」と声をかけられた。畔上さんだった。35年ぶりなのにちっとも変っていない。畔上さんの先導で、6時10分前にホテルに無事到着した。畔上さんはSA,MAというヒット商品を開発した技術者だある。
千曲川工場ができたのは1969年、月産生産能力200万巻だった。(写真・右)この工場にはカセットテープづくりの職人が集結していた。当時の技術者の多くがこの地に住み着き、定年後の今でも年に数度集まり旧交を温めているのである。今回の納涼会の参加者は56名というから凄い。(写真・上)
カセットテープの生産工場は千曲川の後、米国カルフォルニア、ドイツ、ルクセンブルクに建設された。千曲川工場は基幹工場だった。
TDKのカセットテープは最盛期には年間売上700臆円を超えた。TDK全社の25%、利益では50%に達した。TDKカセットテープの世界シェアは30%~40%とトップ。「世界のカセットTDK」といわれた。TDKは世界陸上のゼッケンスポンサーを続けているが、この地位を獲得できたのもカセットテープがあったからである。
私は1975年~1987年カセットテープの商品企画を担当。千曲川工場ができてからは毎月工場に出張し、千曲川工場の技術の方々と商品化の検討を進めた。私は「聴感評価」を重要視した。技術の方々も私と同じ考え方だった。カセットテープも料理と同じ。”味”である。どんな音のテープを作るか。「世界最高の音」を求めてわれわれは切磋琢磨した。