2026年11月1日日曜日

「ALWAYS三丁目の夕日」そして「ゴジラ」。昭和男感激

 
先月、テレビで「ALWAYS三丁目の夕日」が放送された。
昭和33年(1958)、東京の下町で、貧しくとも暖かな人々の交流を描く物語。昭和33年といえば小生中学一年生。
 主人公の星野六子(ほしのむつこ):堀北真希が青森から集団就職で上京するところからはじまる。汽車は夜行列車で通路までビッシリのすし詰め。上野駅の到着案内は看板で、ズラリと看板が並ぶ。六子が載った汽車は常磐線という表示。当時、青森からの夜行列車は常磐線経由だったらしい。上野駅も昭和時代そのままの風景で、広場は到着した生徒達で大混雑。冒頭のシーンを見ただけで、秋田生まれの小生は懐かしく、テレビの画面に釘つけになってしまった。この映画、2005年に公開され、第29回日本アカデミー賞で最優秀賞受賞。脚本・監督は山崎貴。
 この映画に続いて「ゴジラー1」もテレビで放送された。「ゴジラ」は見るつもりがなかったが、監督が「ALWAIS三丁目の夕日」の山崎監督と知り観ることにした。いや、凄かったですね。昭和20年代前半、ゴジラが東京・銀座に上陸し、ビルは破壊され、列車は投げ飛ばされ、多くの人が巨大な足で踏みつぶされる。火を噴くシーンなど、あまりの残酷さに言葉を失った。この映画は米国のアカデミー賞で、アジア勢として、初めて視覚効果賞を受賞したという。山崎監督はゴジラでも、3丁目と同じように人々の温かい交流のシーンを描写する。山崎監督1964年生まれ。長野県松本市出身

 10月24日、水戸芸術館(写真・右)で水戸室内管弦楽団のコンサートを聴く。曲目はベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲、他。指揮とヴァイオリンはピンカス・ズーカーマン。水戸芸術館は水戸市が年間予算の1%(約9億円)を投じて運営する。初代館長・吉田秀和、2代目は小澤征爾、3代目は片山杜秀。

2026年10月25日日曜日

ケネディ等セレブご用達キャンベルで行われた佐藤則男さんの葬儀

10月17日、佐藤則男さんが逝った。膵臓ガンだった。則男さんは元・TDKの社員だが、TDKのOBで彼を知っている人は少ない。則男さんは新潟の出身。実家は新聞販売店だった。高校生の時、朝日の英字新聞、朝日イブニングニュースでアルバイトをしながら、高校、大学(早稲田)で学んだ。大学を卒業すると1971年、朝日イブニングに入社。TDKがアメリカ要員を募集していることを知りTDKに転勤。憧れのニューヨークに飛ぶ。TDKの推薦でコロンビア大学ビジネススクールに入学し、MBA(経営学修士)を取得。1983年、国連予算局に勤務。1985年、ビジネスコンサルティング会社設立。その一方で米国在住ジャーナリストとして活躍。2015年、講談社より「なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?」出版。
私は1976年、米国に出張したが、その際、英語に堪能な則男さんのお世話になった。二人でニューヨーク、ボストン等、7都市をまわった。その後、則男さんが帰国された時は現役時代から今日までお目にかかる間柄だった。
お目にかかると、則男さんは夢を語った。しかし、その夢はほとんど実現しなかった。則男
さんは私に自分の夢の実行者として日本で活動して欲しいと期待していたように思う。しかし、私には則男さんの期待に応えられるような人脈も実力もなかった。
則男さんの葬儀は翌週、金曜~土曜にわたって、ニューヨークのマジソン街81丁目にあるキャンベル(写真・右)で行われた。キャンベルは指揮者のトスカニーニ、ジョン・レノン、ジャクリーン・オナシス、ロバート・ケネディ等、セレブご用達の葬儀屋さんである。
新潟の新聞販売店で生まれた則男さんが、ニューヨークのセレブご用達キャンベルで最後を迎えた。ドラマチックである。


2026年10月19日月曜日

安全第一!生垣の剪定&大ホールにお客様38名。芸の世界は厳しい!

 

10月になり、1ケ月以上続いた長雨もやっと収まった。

半年ぶりに生垣の剪定をした。剪定ハサミは2本あるのだが、なぜか物置には1本しかない。生垣の剪定の前にある藪払いをした。驚いたことに藪の中から剪定ハサミがでてきた。前回剪定作業をした時に、藪の中に置いたまま作業を終了してしまったらしい。これも老化現象の一つだろう。ハサミは錆ついていたが、ありがたいことに切れ味は変わらない。生垣の高さは4m近くある。梯子を使用しての作業になる。安全第一である。スライド式の梯子を延ばし、接続部のストッパーを念入りに点検。梯子の角度が急角度にならないよう、梯子を建てる地盤については、強固なこと、滑らないことなど、注意する。生垣の長さは15mほど。(写真)一日5mほどの作業にし、3日かけて終了した。若い時は半日で行ったものだが、高齢になるとそうはいかない。ムリをすると事故につながる。梯子から転落したら、天国行である。

17日、つくば市のノバホールにでかけた。友人から知り合いのピアニストがリサイタルをやるので、良かったら行って欲しいと言われたのである。
ピアニストは芸大出身で海外に留学されたとあって腕は確か。モーツアルト、ドビッシー、
シューベルトの名曲を楽しむことができた。しかしである。千名のホールにお客さんはわずか38名。クラシック音楽愛好家の数は少ない。しかし、日本には腕効きのピアニストは数多い。ショパンコンクールやチャイコフスキーコンクールといった海外の著名コンクールに入賞しないと、千人のホールを満席にできない。芸の世界は厳しい。
ホール代、ピアノ借用代、調律料、チラシ代、コンサート事務所等への支払いを考えると、かなりの持出しになったに違いない。

2026年10月13日火曜日

一振り800万円。世界の小澤の素顔

 
「タクトは踊るー風雲児・小澤征爾の生涯」を読んだ。小澤征爾は․2024年、88才で死去した世界的な指揮者である。著者の中丸美繒さんが、本人および関係者に取材し、一周忌に合わせて刊行した渾身の作品である。音楽関係者でなくとも驚くような内容が詰まっている。
〇最初の妻だった江戸京子はこう語っている。「征爾は強引な人だった。押しも強い。やりたいことを必ずやり遂げるというところがあった。それを男らしいと感じたのでしょうね。その彼がいつも崖っぷちを歩いていた・・・」。「小澤さんは音楽のためには親でも殺す」。50年来、小澤をみてきたセイコーエプソンOB、武井勇二・談。
〇日本フィル分裂事件→小澤が主席指揮者を務めていた日本フィルが待遇改善を求めて労働組合を作った。日本フィルの給料は放送局系の楽員が20万円の時、6万4千円。芸大出身のプロなのに。1972年、小澤は36才で日本芸術院員章受章。片岡仁左衛門や作家の宇野千代と一緒だった。授賞式で小澤は昭和天皇に訴えた。「陛下、日本フィルを助けて下さい。指揮者が国家から最高の賞をもらいながら、そのオーケストラはつぶれそうです」。陛下は「うん、うん」とうなずいた。
〇浜離宮朝日ホールが1992年完成。支配人・志村嘉一郎、談。「岩城宏之とオーケストラ・アンサンブル金沢を呼んだ時は、両方で一公演200万。小澤征爾指揮もやりたかったが、一振り600万~800万。定員552席の小ホールでは、とてもペイできません。
〇2002年、小澤は世界のクラッシック楽壇の最高峰、ウィーン国立歌劇場・音楽監督に就任。この陰にトヨタの財政支援があったのは公然の秘密。レクサス・ブランドの立ち上げに注力するトヨタと、財政危機を打破したいウィーン国立劇場サイドの利害が一致した。勿論、その前提として小澤は指揮界の巨匠、カラヤンとバーンスタインが認めた実力者だった。
〇2002年、小澤征爾が指揮したウィーンフィル「ニューイヤーコンサート」NHKで生中継。小澤征爾の踊るような指揮が日本人を魅了した。TDKコアがこのDVDを発売。10万枚の大ヒット。この年、小生、TDK定年退職。退職記念パーティが有楽町の外国人記者クラブで行われた。参加者80名。私は花束を抱え、小澤・ウィーンフィルのラデッキー行進曲に送られて会場を後にした。



2026年10月8日木曜日

パソコンクラブの講師に挑戦→情報セキュリティについて語る

 
毎月、パソコンクラブの例会がある。例会ではセミナーがあるのだが、10月6日のセミナーは私が講師を務めた。
パソコンクラブのメンバーはほとんどか理科系。そのメンバーを相手に文科系というか、この分野で素人の私が講師をやる。これって変ではないでしょうか?
その背景には人材不足がある。最盛期、パソコンクラブは30名くらいのメンバーがいた。それが今では10名ほど、つまり崩壊寸前なのである。時代も今やパソコンではなくスマホの時代である。
セミナーのテーマも語り尽くされている。ということで、セミナーの講師も「できる人」ではなく、「やる気のある」会員がやるということになった。ということで、素人で高齢だが「やる気のある」私にお鉢が回ってきたという次第。
10月のセミナーのテーマは「今さら聞けないセキュリティの基礎知識」。1カ月前から図書館
から関連資料を借りて(写真)読み込み、パワーポイントにまとめた。
AI時代を迎え、不正アクセスによる混乱は連日マスコミを賑わしている。セミナーのポイントはこのような不正アクセスにどう対処するかであり「できるメンバー」の方たちの体験談でセミナーは大いに盛り上がった。
終ってからのビールも美味しかった。
11月も私がセミナーの講師をやる。11月のテーマは「デジタル禍ー急増するbot」である。来月も頑張るぞ!
総武線に乗って、秋葉原から会場のある浅草橋に行く時、一番前の車両だったので面白い写真がとれた。(写真・上)

2026年10月3日土曜日

新宿歌舞伎町→庶民のための歓楽街(今生の見納め)

 
 新宿歌舞伎町というとイメージが悪い。独身時代は数回行った記憶はあるが、結婚してからは行った記憶がない。あれから57年、新宿歌舞伎町とはどんなところだったろう。
1日、その機会が訪れた。この日は浅草橋で午後6時から飲み会があった。早めに自宅をでて歌舞伎町に行ってみた。歌舞伎町についた時間は4時30分だった。
 JR新宿駅東口をでて100mほど行った大通リの向かいが歌舞伎町である。飲食店等のネオン、看板を掲げたビルが林立してウキウキする。(写真)大通りをわたり歌舞伎町に入る。外人客で一杯である。見たこともないような巨大な寿司屋が立ち並ぶ。東京・銀座がハイクラスの社交場だとすると、新宿歌舞伎町は庶民の社交場という感じである。
 ネットで新宿歌舞伎町をクリックすると次のような案内がある。「新宿歌舞伎町は、もともと、江戸時代の新しい宿場町であった新宿の、色町としての色合いが濃かったところであったが、空襲で焼失した後、戦後の区画整理で、歌舞伎座を誘致する構想があったことから、
新宿のこのあたりを歌舞伎町としたのが始まりといわれています。現在も、飲食店、映画館、遊戯施設などが集中し、眠らない街といわれています。」
 1万5千円出せば、夜の「歌舞伎町、夜のバーはしご&軽食ツー」もあるようだ。しかし、84才になると、付き合ってくれる仲間もいない。夕暮れの歌舞伎町が今生の見納めとなった。

2026年9月28日月曜日

東京芸大卒業生が歌う「昭和歌謡コンサート」&「あの人は今」取材。

 
27日(日)つくば市民ホールくきざきで「THEカルテット・昭和歌謡コンサート」があった。家内と一緒にでかけた。ホールはわが家から徒歩25分。入場料¥2,500と格安。
このコンサート実に良かった。
6月30日、牛久市民ホールで行われた細川たかしも良かったが、昭和歌謡コンサートは細川とは違う良さがあった。
細川の場合、舞台左右に大型スピーカーを配しての大音響だった。ド演歌には向いているかもしれないが、コーラスが趣味の家内には刺激が大きすぎたようだった。
「THEカルテット」は歌手は東京芸大声楽科卒業生のテノールとバリトン。伴奏のピアノとヴァイオリンは桐朋学園大卒業生で、生の声と楽器の音を生かした音響バランスである。
冒頭「高校三年生」を聴いた時、一気に昭和が蘇った。
後半「イヨマンテの夜」アーホイヨーアー、イヨマンテの歌い出しは細川の「イヨマンテ」も負けそうな圧倒的な迫力。昭和の爺さん、婆さんの喝采を浴びた。
そういえば,ちあきなおみの「喝采」も良かったなあ。
26日(土)、TDK社友会会報の編集の方お二人が牛久までこられた。雨の中、東京と横浜から来られたというのでスッカリ恐縮してしまった。会報で「あの人は今」という企画があり、牛久在住84才の私を取材するというのが目的だった。取材は駅前の喫茶店と牛久大仏で行われた。
聞けば、御一人は工学博士、もうお一人は海外勤務の経験がある国際人。学歴もなく、中間管理職で終った私はただただ恐縮するばかりだった。