美輪さんとは思いでがある。
私は昭和38年(1963)から42年まで社内報「TDKタイムズ」の編集を担当していた。
「私のアシスタント」という企画があった。これはTDKテープ(当時、シンクロテープ)を愛用している有名人にインタヴューする企画だった。
昭和40年、私は美輪さんのご自宅を訪れて取材し、銀座にある「銀巴里」で原稿のチェックをしていただいた。
原稿の一部を紹介しよう。(1971年、丸山さんは姓を美輪に変えた)
「僕は一匹狼です」レースのようにかぼそい姿体をした丸山さんがこう語った。メケメケは新しい風を芸能界に吹き込んだ。このため、たちまちマスコミの注目を浴びたが、一部の評論家の激しい批判を受け、丸山さんは窮地に追い込まれた。しかし、丸山さんは屈せず、自分の創り出した世界を守り続けた。丸山さんは亜流ではない自分だけの歌に自信と愛情を持っていた。そして、その愛情は舞台の厳しさととなって表れる。「僕は舞台でも自分のすべての力を出しつくすようにしています。ですからいつ死んでも悔いはありません」一時は異端児あつかいさえされた丸山さんも、最近では、その独特な個性の心ゆえに再びマスコミのスポットを浴びるようになった。どうしてだろうか。「世の中の流れが小川から大河になったんでしょう」といって白い狼は静かな笑みを浮かべた。
丸山さんは長崎生まれ。10才の時に原爆の洗礼を受けた。この頃からピアノと歌の個人レッスンを受け、さらに国立音楽大学で声楽を学んだ。また、この間、二百曲近い曲を作詞作曲した。最近ヒットした「ヨイトマケの歌」もその中の一つだ。
私は昭和38年(1963)から42年まで社内報「TDKタイムズ」の編集を担当していた。
「私のアシスタント」という企画があった。これはTDKテープ(当時、シンクロテープ)を愛用している有名人にインタヴューする企画だった。
昭和40年、私は美輪さんのご自宅を訪れて取材し、銀座にある「銀巴里」で原稿のチェックをしていただいた。
原稿の一部を紹介しよう。(1971年、丸山さんは姓を美輪に変えた)
「僕は一匹狼です」レースのようにかぼそい姿体をした丸山さんがこう語った。メケメケは新しい風を芸能界に吹き込んだ。このため、たちまちマスコミの注目を浴びたが、一部の評論家の激しい批判を受け、丸山さんは窮地に追い込まれた。しかし、丸山さんは屈せず、自分の創り出した世界を守り続けた。丸山さんは亜流ではない自分だけの歌に自信と愛情を持っていた。そして、その愛情は舞台の厳しさととなって表れる。「僕は舞台でも自分のすべての力を出しつくすようにしています。ですからいつ死んでも悔いはありません」一時は異端児あつかいさえされた丸山さんも、最近では、その独特な個性の心ゆえに再びマスコミのスポットを浴びるようになった。どうしてだろうか。「世の中の流れが小川から大河になったんでしょう」といって白い狼は静かな笑みを浮かべた。
丸山さんは長崎生まれ。10才の時に原爆の洗礼を受けた。この頃からピアノと歌の個人レッスンを受け、さらに国立音楽大学で声楽を学んだ。また、この間、二百曲近い曲を作詞作曲した。最近ヒットした「ヨイトマケの歌」もその中の一つだ。
(写真:丸山さんの自宅で畠山が撮影)








