2024年5月12日日曜日

さすが国際ホテルマン(下)最初のVIPは松下幸之助

 前田さんはホテルマンとして国内のVIPと接したが、はじめて接したVIPは松下電器(現在のパナソニック)の創業者である松下幸之助だったという。
「幸之助氏は藤田観光の役員であった関係で、大阪の松下電器本社から、わざわざ京都国際観光ホテルの理容室に散髪にこられたのです。この時、私は入社して4年目、27才でした。私は幸之助氏のお迎え係をさせられたのです。予め松下電器の総務部から電話が入り、前日、前々日には総務部長、庶務課長など数人が幸之助氏の控室と理容室をチェックしにこられました。控室は4万3千円のスイートルーム。当時の私の月給は2万足らずでした。私はフロント前に幸之助氏をお迎えに上ります。車がご到着すると、ベルキャプテンのツネさんがホテル内にご案内、エレベーターガールの上杉さんが和服姿でエレベーターまでご案内します。スイートルームに入ると大きなガラス窓から二条城の姿が鮮やかに見えます。まるで絵に描いたような光景です。幸之助氏はソファに座られると、京観世の銘菓と、京都一保堂の緑茶を召し上がり、庶務課長と歓談。その後、私は三階にある理容室にご案内しました。理容室のドアを開けると、理容室のスタッフ全員が起立してお迎えしました。理髪を終えられると、幸之助氏は黒塗りのトヨタクラウンにご乗車され帰られました。幸之助氏は小柄で温和、人を圧するようなところは全くありませんでした」
VIPの中には困った方もいたそうです。
「某国の大統領夫人が宿泊することになり、外務省から細かい指示がありました。食事はブタ肉はダメとか、夫人は音大の出身なので、部屋にグランドピアノと最高級のオーディオ装置を置けとかうるさいんです。その費用はホテル負担ですから困ったものです。夫人は靴だけでも何十足も持ってきていましたね。来日の目的は公務ならまだしも観光目的でした。支配人も次回はキッパリお断りするとカンカンでしたね」
前田さんの話は速射砲のように続き、午後2時30分までのランチタイムをオーバー。「どうぞごゆっくり」というレストランスタッフの暖かい言葉を合図に幕となりました。

2024年5月8日水曜日

さすが国際ホテルマン(中)三島由紀夫と会う

 
前田さんの話は次第に熱を帯びる。
「学生時代、三島由紀夫と会いました」
え!私も西宮さんも思わず身を乗り出す。
「上智大学時代、グリークラブの指導をなさっていたジョージ・ラヴさんと親しくなりました。私が構内を散歩している時、ラヴさんがムッシュ・マエダはフランス料理を食べたことがあるかと聞いてきたので、ありません。と答たところ、これから食べに行こうというのです。行先は銀座みゆき通りの三笠会館でした。驚愕しました。三島由紀夫、西武の堤社長、シュル・レアリズムの滝口修造、詩人の谷口俊太郎、作曲家の武満徹、評論家の大岡昇平が居並ぶ席に案内されたのです。私は息もできず、料理の味もわかりませんでした。話題はシュル・レアリズムについてでしたが、良く理解できず、一言も話すことができませんでした。ラヴさんはハーバード大学でレナード・バーンスタインに指揮法を学んだ方で、ナマの日本と日本語を学ぶために来日し、文化人と交流していたんです」
「もう一回ハプニングがありました。同じクラスの高橋君が横綱の朝稽古を見に行く気はあるか。というので、そんなの後援会の会長でもないと見れなんじゃない。というとオレは栃錦の親戚だから大丈夫。とボクの顔を見て笑うのです。栃錦所属の出羽の海部屋には千代の山、羽黒山、出羽錦らの強豪が顔を揃えていた。稽古場に行くと大きな火鉢があり、畳の上に座っている顔ぶれを見て驚愕。昨年入団したばかりの巨人軍の長嶋茂雄、俳優の佐野周二ご夫妻と息子の関口宏が座っているではないか。3人とも立教大学のOBである。思わず高橋君に立教と上智では勝ち目がないね。というと高橋君は”なんのこっちゃ”とう顔をしていた」
前田さんから昭和時代の著名人達との驚愕の出会いを聞き驚くとともに、食事をしながら前田さんから直にお話を聞ける贅沢さを噛みしめるのだった。


2024年4月30日火曜日

さすが元国際ホテルマン(上)カラオケは5か国語構成

  今日、元・ホテルマンの前田安政さんにお目にかかった。西宮聡彦さんの紹介だった。
12時、柏のクレストホテル・レストランでお目にかかった。気がついたら3時過ぎだった。前田さんは85才だが、その人生は波乱万丈、現在進行中である。
〇小学生の頃、NHK・志村アナウンサーのスポーツ実況中継のマネをし、大ウケ。校内外で、スター扱い。NHKのオーディションにも合格し、ラジオ出演。
〇実家はお菓子の製造をやっており、これからはキャラメルの時代ということで、これが当たり隆盛を極めたが、やがて事業は傾く。
〇大学は上智大学。授業中、神父に隠れて「運命」「未完成」を聴くほどのクラシックファンだった。
〇京都国際観光ホテルに就職。来日アーチスト、カラヤン、小澤征爾等の世話をする。カラヤンのパトロンはオナシスだった。小澤はヒッピーだった。と語る。
〇一端、ホテルを辞め、レコード店でクラシック売り場を担当。月2枚しか売れなかったクラシック売り場で売上500万円達成。新譜のレコード推薦評を自分で書き、高額所得者である医師に売りつける。夕方、会社の帰りにクラブ、バーのママにカラオケのテープを売った。
〇椿山荘ホテルのホテルマン(参与)になる。パリのホテル・リッツ視察。試しにノーネクタイでレストラン入ったところ最上席に案内され驚く。BGMが流れてないので理由を聞くとボーイ長が「フランス語の会話がBGMです」。さすがパリと思った。
〇カラオケの持ち歌は日本語、英語、仏語、伊語、独語の5ヶ国語構成。日本の演歌で始まり、独語の「歓喜の歌」で締める。(歓喜の冒頭聴かせていただく。美声に驚く)
〇1993年、鎌倉文化会館完成。「文化会館というネーミングは平凡だから市民から公募してオリジナルなネーミングを」と提案。自から提案した「鎌倉芸術館」という名前になった。
〇83才で千葉県白井市市長選立候補。「旧態依然を払拭する」と宣言。が、帯状疱疹にかかり辞退。
〇胃ガン、前立腺ガンに加えて、脳の手術をする。骸骨に穴を開ける時、「場所がまずいのでやり直します」にはエッと思ったね。
〇担当医とインテリについて語り合う。医師いわく「インテリとは金儲けに関心のない文化人。医師は金儲けが目的なのでインテリではない」
 現在も年200回くらいコンサートに通っているとのこと。健康の秘訣は少年のような好奇心と行動力。湧き出る自己表現力にあると感じた。
(写真左から、西宮さん、前田さん、小生・畠山)

2024年4月27日土曜日

ざわつく老人会!会費の値上げ断行

 25日(木)私が住む刈谷地区老人会(牛久市刈谷シニアクラブ)の総会が行われた。この総会で今後の老人会の運営指針を変えるかもしれない決議が行われた。
それは会費の値上げである。諸物価高騰の折、年金生活者のセーフティネットである老人クラブの値上げが決定したのである。
値上げの主な理由は「特別講座」である。なんと、令和5年度は15回も特別講座を行った。中身は「三味線」「マジック」「二胡」「相撲甚句」「詩吟」と多彩。つくば大学生によるフォルクローレの演奏会もある。これでは、老人会がイベント屋になったようなものである。
私はこのようなイベントをやるために会費の値上げをするのは反対だと発言した。予算を値上げすると、会がますますイベントに傾斜し、イベントを主導しているS会長の負担が増えるのも心配だった。
しかし、決議の結果、ほぼ満場一致に近い形で値上げが決まった。「特別講座」を楽しみにしている会員が多いということの証明である。主導しているS会長とともに老人会全体が「特別講座」というイベントにはまってしまったと感じた。
しかし、見方を変えれば、これが「老人会」の新しい行き方なのかもしれない。つまり、老人会は「年金生活のセーフティネットの”溜り場”」という考え方から「”溜り場”+イベントでより楽しいものにする」そのためには会費の値上げをしてもかなわない。
S会長は今年から「牛久シニアクラブ連合会」の理事に就任した。刈谷➡牛久➡茨城➡日本と新しい風が吹くかもしれない。

特別講座がある時、刈谷老人会は”ざわつく”。つまり、活気に満ちるのである。ただ、私はこの”ざわつき”が苦手である。「誕生パーティ」で会員のスピーチを聞く”ほどほどのざわつき”がシックリするのである。


2024年4月20日土曜日

年間売上1兆円。TDKの電池事業

16日(火)TDK・OBパソコンクラブの勉強会があった。(ネット上でも配信・写真上)テーマは「電池の基礎知識と最新技術動向」。講師は現役のKさん。Kさんは東北大学大学院博士課程修了。科学研究振興機構の研究員等を経てTDKに入社した。
82才のジイさんになって、こんなピカピカの研究者の話を聞けるなんて、なんて贅沢なんだろう。

TDKはカセットテープのメーカーとして有名だが、今は電子部品メーカーである。年間売上2兆円。そのうちの半分が電池なのである。
TDKは1970年より電池事業に着手。1993年リチウム電池用電極製造。2005年、中国の電池メーカーATL社を100億円で買収。ATLの創業者は、起業前にTDKの中国法人に勤務していた。
ATLはapple社のスマホ、タブレット向けにリチウム電池を納入。売上が急拡大した。100億円で買収した会社の売上が年間売上1兆円となり、TDKの屋台骨を支えている。
(写真・中は電池工業会HPより。下は中国副健省にあるATL社タウン)






2024年4月14日日曜日

「小澤征爾を偲ぶ」東条碩夫さんの講演に全国から仲間が集う。

 
 昨日(13日)、音楽仲間の団体、「龍ヶ崎ゲヴァントハウス」の春の特別講演会があった。公演テーマは「小澤征爾さんを偲んで」講師は東条碩夫先生(元・FM東京音楽プロデューサー、現音楽評論家)
 
東条さんは小澤征爾が25才でバーンスタインのアシスタントになった当時から、小澤さんの才能を確信。1971年からはFM東京の音楽プロデューサーとして、小澤さんのコンサートの収録を手がける。小澤さんは東洋人として、ベートーベンやブラームスといった西欧の音楽をどこまで表現できるかに挑戦。2002年には東洋人として初めて音楽の本場、ウィーン国立歌劇場の音楽監督に就任する。東条さんは海外ではウィーンよりもパリでの小澤さんの評価が高いのを実感しており、フランスのオペラ劇場の音楽監督になっていれば、より小澤さんの才能が発揮できたのではないか。と語った。
 講演会終了後、場所を牛久シャトー(写真・上)に移して東条さんを囲む懇親会。17名が参加。北海道、名古屋、福島からも会員がかけつけた。ゲヴァントハウスのメンバーは60才から80才代。職業も小生のような年金生活者から学校教師、研究者と多彩。
 私はTDKで宣伝の仕事をしたが、1971年、TDKは東条さんがプロデュースしたクラシック生収録番組のスポンサーになった「TDKオリジナルコンサート」である。東条さんとは50年以上にわたる長いお付き合いである。小生82才、東条さん85才。元気でお付き合いできる幸せを嚙みしめた一時でもあった。


2024年4月8日月曜日

「橋のない川」住井すゑの生涯

  先月、私の家から2,5キロのところにある「牛久市住井すゑ文学館」を尋ねた。
この文学館は2018年に建てられたのだが、「灯台下暗し」で今まで尋ねたことがなかった。
この文学館はすゑの書斎があった建物を改装したものである。書斎が再現され、ゆかりの品や本が展示されている。
 彼女の代表作「橋のない川」が部落問題研究所の雑誌「部落」に掲載されたのは1958年59才の時、そして最終刊となる第7部を書き終えたのは1992年90才の時だった。そしてこの年、日本武道館で「90歳の人間宣言・いまなぜ人権が問われるか」という講演を行っている。この講演会には8,500名のファンが詰めかけた。
 北条常久さんが書いた「橋のない川 住井すゑの生涯」を再読した。
 すゑは奈良県の出身だが、なぜ、牛久に文学館があるのか。それは彼女の夫、犬田卯が牛久の出身だからだった。すゑと犬田はどうして知り合ったのか。すゑは博文館が出版している「少女世界」「文章世界」に作品を投稿していた。犬田は博文館の編集部員だった。
 「橋のない川」第一部にこんな文章がある。
 進吉は対岸を上流を向いて駆け出す。ふでも上流を向いて走りつづける。「ああどこかに橋があるはずや。」しかし、川幅は広く、対岸は丈余の雪で上流にも下流にも橋はない。ふでは、愛しい夫の進吉にどうしても会えない。手放しでふでは泣いた。ふでは恋しかった。ただただ進吉が恋しかった。
「橋のない川」は600万部売れたといわれ映画にもなった。住井すゑは佐多稲子、林芙美子、円地文子と並ぶ昭和を代表する作家である。