2015年5月17日日曜日

50年前・独身寮時代の仲間と旅行(新潟)

(左から柏倉さん、小生、栗林さん)

 毎年、独身寮時代の仲間とゴルフをやっている。寮は千葉県市川市本八幡にあった。市川駅から徒歩10分。その頃はまだ田圃があった。50名くらいの寮生が入っていた。部屋の広さは3畳ほど。そこに机とテレビ(モノクロ)を置くと、布団を敷くところがない。秋田からの出張者はそんな狭いところにテレビを見にきた。寮生への手紙は食堂の一角にまとめておかれていた。プライバシーなど問題にされていなかった。「おい、彼女から手紙が来ているじゃないか」そんな会話が日常だった。
 秋田出身の柏倉さん(人事・中央大学出身)、静岡出身の栗林さん(人事・中央大学)、長野出身の平田さん(技術・電通大、後NCR)が仲間である。年長(79才)の柏倉さんが「教養クラブ」という名前を付けた。今年はこのメンバーに秋田で人事部門にいた今野さんが加わった。今野さんは一時本社勤務となり、八幡寮の一員となった。

 場所は今野さんの事を考えて、東京と秋田の中間を選んだ。新潟県阿賀野市咲花温泉。阿賀野川に面したこじんまりとした温泉。翌日は近くの阿賀野高原ゴルフ場で一戦を交える。
 5月12日、10時過ぎ、牛久駅で柏倉、平田、栗林の3名を愛車に乗せて出発。午後4時には花咲温泉・湯元館に到着。今野さんも到着していた。案内された三階から臨む阿賀野川のなんと素晴らしい事か!山間とは思えない、幅広の川面が眼前に浮かぶ。「フォー」と歓声を上げる。(写真・下)風呂もひなびて風情があり、料理も美味しかった。なによりも木造のこじんまりした作りが良い。女将も中居さんも新潟美人だった。
 13日のゴルフは、予報にあった台風の影響も無く、晴れ。阿賀野高原ゴルフ、クラブハウスは立派、コースままずまず。しかし、コース間の移動は急峻。カートの運転を任された小生、汗だくだった。73才にはキツイ。3時過ぎにはなんとか無事終了。牛久から阿賀野市までは往復700キロ。その上、カートの運転も引き受ける。キツかったが、それだけに記憶に残る旅行になった。

2015年5月10日日曜日

最期のマイカー

(リニューアルした愛車”エアトレック”息子から譲りうけた)
 
 私が車に乗りはじめたのは1973年(昭和48年)31才の時だった。
この年、西荻窪から牛久に引っ越し。長女に続いて長男も生まれた。車は必需品だった。
(運動神経が鈍く、車にも興味がなかった私の車はほとんどが、義弟からゆずり受けた中古車だった。)
 それから22年、2001年息子も大きくなり就職。宇都宮勤務。ここで息子は新車を購入した。ステーションワゴン車、三菱エアトレックである。次の年、息子がそのエアトレックを買って欲しいという。車種には執着心がない小生、エアトレックを買い取ることにした。
 定年を迎えた時、定年後は”軽”が一番経済的だよと助言してくれる人もいたが、たまに友人とゴルフに行く。”軽”だとクラブを積む事ができない。
 あれから13年エアトレックに乗り続けている。

 運転が下手な小生、エアトレックはボロボロである。前も後もバンパーに傷がついている。ただし、走行距離を見ると97,000キロしか走っていない。
 熟慮の上、このエアトレックを最期のマイカーとして乗り続けることにした。4月30万円かけてリニューアル。これからは傷をつけないように大事に乗ろう。息子から譲り受けた大切な車である。


2015年5月5日火曜日

老人を拒否する街(汐留)

冷たい、汐留の高層ビル街
 
 先月(4月28日)、工業会OB会有志の飲み会があった。工業会とは「日本記録メディア工業会」のことである。
 カセットテープ、ビデオテープ、CD-R、DVD-R、フロッピーディスクの生産メーカーの集まりである。ソニー、富士写真、日立マクセル、TDK、パナソニック、ビクター等が加入していた。小生は会社勤務の傍ら、工業会で広報、業務委員をやっていた。

 飲み会の場所は東京の汐留だという。JR新橋駅から数分だという。開始は5時。現役時代、日本橋勤務だったし、工業会は虎の門だったので、日本橋から東京、銀座、新橋は守備範囲である。ただ、海側については当時は未開の地だった。そんな事もあり、余裕を持ってでかけた。

 余裕を持ってでかけたが、エライ目に会った。汐留は巨大なビル街だった。パナソニック、日本テレビ、電通などの巨大企業が巨大な高層ビルに入居している。ビルを一回りするだけでも200メートル近く歩かなければならない。その中で飲みやを捜すのは大変。ここは老人のくるところではない。高層ビルの地下二階の飲み屋の座席に着いた時はヤレヤレだった。

 東京も変わったが、自分も年をとったものだ。
 飲み会に集まった各社の面々、さすがにみんな年をとった。いつもは二次会ということで銀座に繰り出したものだが、8時、汐留で打ち止め。助かった・・・。

2015年5月2日土曜日

春たけなわ、ゴルフコンペ3回。頑張るぞ!

(右から坂本さん、小生、坂本さんの奥さん)
 
 最近はゴルフといえばグランドゴルフである。ただ、昨日(1日)、お断りできないコンペがあり、今年2回目のゴルフをした。(1回目は3月21日、出版社の社長と)。3年前亡くなられた上司の追悼コンペである。12名(3組)が霞台カントリークラブに集合した。天気は晴天。私の組は現役時代、営業を率いた岡田光雄さんと、私の部下だった坂本幸弘さん、奥様の彰子さん。坂本さんも今年の秋には定年を迎えるという。
 ところで、坂本さんの結婚式は1985年12月7日、場所は下関だった。奇しくも、岡田さんと私は坂本さんの結婚式に参加していた。幹事はこのことを知っていて4人を組合せたのだろうか?この年の私の日記を見ると、欧米出張2回。ワシントン、パリにも行っている。つくばで科学万博開催と大変な年だった。長男は筑波のマラソン大会、小学生の部で2位。長女は中学生で関西に修学旅行をしている。あのバーンスタインがイスラエルフィルを率いて来日。そのマーラーの名演も聴いた。人生絶頂期の頃だった。

 昨日のゴルフだが、岡田さんが102で7位、坂本さんが100で9位、奥様が105で5位、私が110でブービー賞(尻から2番目)。久し振りのゴルフなので、自分のボールがどのクラブでどれくらい飛ぶのか全く見当がつかない。前半のアプローチはほとんどがグリーンオーバーで57、後半は飛距離が把握できてきたので53だった。今月は13日、独身寮時代の仲間とコンペ(新潟・阿賀高原ゴルフ)、21日は高校時代の同級生とのコンペ(ザ・ロイヤルオーシャン)と続く。月に3回のコンペは久しぶりである。100近くまでスコアを縮めたいものである。



2015年4月28日火曜日

女性市議4割。わが町・牛久


 26日行われた市議選。私の住む牛久市の場合、選挙前7名だった女性議員が9名となった。
22名の定数に対して、立候補者27名。この内、現職の女性7名、新人の女性2名。その全員が当選したのである。結果女性議員の占める比率が40%となった。これは珍しいことであり、今日の読売新聞茨城版でも大きく報道された。
 内閣府男女共同参画局によると、2013年12月現在、女性の割合が3割以上占めている市区議会は3,9%にとどまっており、担当者は「女性の割合が4割を超える市議会は全国でも珍しい」と語ったという。(同新聞)

 私は国政は外交、政治、経済が中心なので、保守系(民主党政権には期待したのだが、あの混乱ぶりには政治に素人の小生でさえ呆れた)。地方区は生活に密着しているので革新系に投票する傾向が強い。今回は革新系の男性候補に投じたが、生活に密着した地方区を考えると、女性の進出は大歓迎である。

 世界情勢を見ると、主要国の文化レベルが上がってきており、局地的なトラブルはあっても、第1次、第2次大戦のような戦争は考えにくい。今後、日本にとって、大切な事は人口減少をいかに止めるかだと思う。その為には女性の政界進出が大事である。まずは地方区からそに実績を積み上げ、国政に反映していって欲しい。わが町うしくがその先兵にあるのは誇らしい。

(追報)今日のNHKの朝の報道番組で、牛久のインターネット番組「ちゃんみよTV」が紹介されていた。

2015年4月25日土曜日

音楽写真家 木之下晃 お別れの会


 カラヤン、バーンスタイン、小澤征爾等、世界の音楽界の巨匠達の写真を撮り続けて来た木之下晃(2006年、紺綬褒章)が今年の1月12日逝った。死因は虚血性心不全。享年78歳だった。
 
 小澤征爾、田沼武能(日本写真家協会長、文化功労者)等が発起人になり、「木之下晃 お別れの会」が昨日(24日)サントリーホールで行なわれた。光栄にも小生も案内をいただいた。お嬢様が木之下氏の年賀状を整理したら、小生の賀状があったので案内したとのことだった。何年ぶりかにネクタイをし、革靴を履いてでかけた。
 会場には著名な音楽家、評論家、写真家が詰めかけていた。日本を代表するピアニスト小山実稚恵がピアノ演奏を献呈した。真近(前から3列目)で聴くピアノの名演奏に圧倒された。木之下はいつも演奏家と対峙して"弓矢を放つようにシャッターを切った”と語っている。特に指揮者の場合、音がでる前に指揮棒を振り下ろす。音楽を理解し、指揮者と一体にならなければならない。木之下の写真から音楽が聴こえる由縁である。(写真、左が小澤征爾、右はカラヤン)

 私の勤務していたTDKと木之下さんとの出会いは1978年、37年前である。カセットテープの広告に使用する写真撮影を木之下さんにおい願した。私は商品企画だったが、コピーライターの内野森一とデザイン担当の和泉賢二が木之下さんのウィーン取材旅行を担当した。当時のTDKは広告宣伝費が豊富だった。泊まるホテルは一流、ドイツ語の通訳つきだった。当時博報堂を退職し、フリーカメラマンとして苦労していた木之下さんは好環境のもとで伸びのびと仕事をされたと内野と和泉は語る。
 TDKは「FMファン」「週刊FM」「FMレコパル」の3誌に木之下さんが撮影したヨーロッパのオペラ劇場、モーツアルト、ベートーヴェン博物館等の写真を使用した広告(カラー見開き)を連載。TDKカセットテープはハイ・イメージ戦略が効を奏しトップブランドになる。TDKが今日あるのも木之下さんのお蔭である。

2015年4月13日月曜日

在米40年。熱血万年青年!

「4月6日のパーティ。右から湯川れい子、細川元総理夫人、佐藤則男」(西宮聡彦撮影)
 来日中のジャーナリスト佐藤則男さんが4月6日、麻布のアメリカンクラブで「ニューヨーク在住40周年パーティ」を開いた。私もご案内をいただいたが欠席した。佐藤さんはコロムビア大学(MBA)卒業。TDK(NY)、国際連合に勤務した国際人。錚々たる方々が出席されるのは目に見えている。子会社の部長職でサラリーマン生活を終えた私のでる幕はない。
 だが、たまたま、12日、東京へでかける用事があったので、佐藤さんにメールを入れた。「12日、読売日本交響楽団のコンサートに行くが、その前ご都合がよければお会いしたい」「ありがとうございます。12時に渋谷でどうですか」。意外だった。あの忙しい佐藤さんが会ってくれるという。しかも”ありがとうございます”とある。
 お目にかかって旧交を温めた。佐藤さんは「日米文化交流基金」を立ちあげるという。佐藤さんは70才近い。にもかかわらず、眼光鋭い。意気盛んである。2人が意気投合した部分がある。「芸術こそ、世界の平和の原点」「芸術を愛する心に貧富の差、宗教の差、年代の差はない」「芸術には全てを超越する力がある」
 午後2時から読売日本交響楽団演奏会。常任指揮者カンブラン(1948年・フランス生)が指揮したブルックナー(1881年・ドイツ生)の交響曲第7番。素晴らしかった。芸術は世界を一つにする事を実感した。
 1976年(昭和51年)、私は初めて米国に出張した。34才だった。TDKに勤務していた。米国全土を廻り、レコーダメーカー、レコーディングスタジオ、販売店の方々にTDKテープ、カセットテープの企画趣旨を説明をするのが目的だった。その時、TDKニューヨークに勤務していたのが佐藤則男さんだった。佐藤さんは私の同時通訳を務めて下さった。夜ホテルに着くと、佐藤さんは深夜まで、今後のTDKアメリカのあるべき方向について熱っぽく語った。そして2人の共通の趣味は音楽だった。
  「日米文化交流基金」それは熱血万年青年佐藤さんによって日米、世界の友好平和の為にに役立てられるのであろう。期待したい。