2024年12月31日火曜日

名医との出会い。

 2024年も今日で終りです。
私の住んでいる刈谷地区は2千世帯ほどあるのですが、N医院一つしかありません。
一昨年、集団検診に行った時、血圧が150を超えていたため、N医院に行きました。N医師は血圧を測り、胸と背中に聴診器を当て、血圧降下剤オルメサルタンを服用するよう処方してくれました。そのお陰で、昨年は血圧は120に下がりました。
11月、そのN医院が廃業してしまいました。理由はNさんの高齢と体調不良でした。そういえば、今年後半頃から血圧をはかるために、私の腕の着衣を上げて、チューブを巻く時の動作が辛そうでした。
止むなく私は家から2キロほど離れたⅠ医院の門を叩きました。Ⅰ医院のスタッフ、設備の違いに驚きました。血圧は専門の看護師が担当。着衣のまま測定。血圧は130。医師のⅠさん、年齢は70才くらいですが、N医師とは比較にならないほど元気溌剌。N医師が出した処方箋と、昨年の集団検診表を見ながら、「血圧降下剤、必要ですかね。晩酌はやりますか」「缶ビール一つと、その後、ウィスキーを少し」「ウィスキーはワンフィンガー、それともツーフィンガー」。私にとってワンフィンガー、ツーフィンガーという用語は懐かしいものだった。銀座のバーカウンターのマスターの顔が目に浮かんだ。その後も「お父さんは高血圧でしたか」等、次々に質問する。
Ⅰ医師の出した結論はこうだった。「降下剤は出しません。毎朝、血圧をはかり、130を超えるようになったら、またお出で下さい」。診察料は初診料も含めて880円だった。N医院では毎回1,500円ほど払っていたので驚いた。
Ⅰ先生は「検査結果だけではなく、患者の生活習慣とか、顔色、話ぶり等を加味して診断結果をだしている」と感じた。年末に名医に出会ったと思った。
 私は月、水、金はグランドゴルフをやっているが、グランドゴルフのない日は、白鳥の姿を見ながら散歩をしている(写真)血圧が130を超えることは当分ないだろう。
来年も元気に過ごすことができそうだ。


2024年12月27日金曜日

2024年トピックス/半導体産業・東北湧く

2024年が幕を閉じようとしている。
今年の新聞記事で記憶に残ったのは3月11日付けの読売新聞。「半導体産業・東北湧く」である。
「半導体産業で湧く」で全国的に有名なのは、台湾大手の半導体メーカー「TSMC」の工場が進出した熊本の菊陽町が有名。同町は人口約4万3千名だが、同町を中心に2022年から10年間で進出企業は90社、雇用は1万人以上、7兆円近い経済波及効果が熊本県内に生じるという。
「半導体産業・東北湧く」を読む。経済産業省によると、2021年の日本の製造品出荷額のうち、東北6県が占める割合は5,8%だが、「電子部品・デバイス・電子回路」は16,9%に達するという。21年の出荷額は2兆円を超え、従業員数は7万名に達するという。
北上市を例にとると、半導体メーカー、キクオシアが一兆円をかけて新製造棟を整備中、電子部品メーカー、TDKが5百億円を投資して新工場を立ち上げた。東北道には東京エレクトロン、トヨタ自動車東日本、荏原製作所、AGC、東京応化工業等が点在し、投資を続けている。
日本海側に目を向けると、秋田では洋上風力発電所が軌道に乗り、やはり半導体メーカーの進出が見込まれているという。
半導体の生産には土地や電気、水だけでなく、優れた人材が必要。東北人は真面目でぶれずにやり通す気風がある。
農業と林業が主体だった東北地方は、これからは半導体産業を軸にしたハイテク産業の拠点としても発展しつつあるという。

2024年12月21日土曜日

美音の陰に壮絶な企業ドラマ/伊藤瞭介・元サンスイ社長

14日のブログで「ステレオ時代」neo7号の話をしたが、この号のメイン記事は「あの頃のサンスイは今でも私たちを魅了する」(特別インタビュー)”山水電気元社長・伊藤瞭介氏”である。
伊藤氏は1938年東京生まれ。成城大学経済学部卒。1961年山水電気入社とある。山水といえば私のような昭和世代にはオーディオの名門として憧れのメーカーである。山水はパイオニア、トリオと並んでオーディオのご三家と呼ばれた。
伊藤氏が山水に入社したのは大学時代、山水のトランスの音に感銘を受けたからだという。営業部門から商品開発部門に異動。この時、米国出張。スピーカーの名器JBLと出会う。伊藤氏はJBLのサウンドを一言でいうとセクシーな音だという。伊藤氏はJBLと総代理店契約を結ぶ。1973年JBLのユニットを使用したスピーカーを発売し、これがロングセラーになる。売上も年間500臆を越した。
伊藤氏はサクセスストーリーの一方、「あまり思い出したくない話だが」と前置きして、労組問題を語る。「サンスイの労組対立は1973年頃がピークだった。会社に国労(国鉄労働組合)が入ってきた。工場に赤旗が立ち、それがサンスイの体力を奪っていく。事業部長なのに自分の仕事はほとんど労組対策だった」「私が社長の時、負債の返済に窮しサンスイを外資に売った。企業の伝統文化や理念の継承は困難だった。めちゃくちゃになった」
伊藤氏は1990年山水退任後、1997年、風力発電メーカーを設立。世界最軽量の汎用小型風力発電システムを開発し、経済産業大臣賞を受賞した。

2024年12月14日土曜日

わが人生の掉尾を飾る2大特集企画/ステレオ時代neo7号発売

 今朝、アマゾンを開くと「ステレオ時代」neo7号の発売記事が掲載されていた。
「ステレオ時代」は澤村編集長と1~2名のスタッフで取材を行っている。他のオーディオ誌のようにオーディオ評論家は登場しない。
音楽・オーディオ誌の名門というと音楽の友社があるが、同社で出版している「レコード芸術」は休刊。「音楽の友」は不定期という厳しい現状である。「ステレオ時代」には澤村編集長の取材記事に固定読者がついているのが、継続出版できている要因だと思われる。
「ステレオ時代」は他のオーディオ誌と比較するとカセットテープオーディオに関する記事が多いのが特徴である。私はTDKでカセットテープの商品企画の仕事をしてきた関係で澤村さんには随分お世話になった。
7号には「カセットテープの頂点、MA-R誕生の真実」と「世界初の音楽カセット、TDK SDカセット開発こぼれ話」が掲載されている。私が現役の頃、お世話になった技術者の方に登場していただいた。技術者の話を聞いて、今さらながら技術の重要性を認識した。その方々を相手に当時、こんな音のカセットを作ってくれとお願いをしていたのである。なんと恥しらず、世間しらず、と自分を恥じた。
当時、技術者の方から、「音楽やオーディオを学んでない畠山をどうして商品企画の責任者
にしたんだ」と私を起用した上司は聞かれたという。その時、上司は「畠山君はセンスがある」と答えた、私が商品企画の責任者になれたのは「ご縁」としかいいようがない。私も82才。澤村さんとの取材共同企画もこれが最後ではないかと思う。その掉尾を飾る2大企画だった。
(写真は「ステレオ時代」neo2号の取材風景。右が畠山。TDK本社にて)




2024年12月11日水曜日

パソコンクラブ来年も続けよう!ビールの魔力


3年前からOBの組織である社友会パソコンクラブの幹事になった。
私は技術者ではないし、パソコンに詳しいわけでもないのだが、会長が現役の頃の上司で、私を幹事に推薦した。私のような素人が一人いても良いのではないかと思ったのではないだろうか。最盛期は月例会に20名ほどの参加者がいたというが、最近は6~8名であり、参加者の減少を食い止めたいということもあったと思う。
幹事になって思ったが、月例会のテーマがなかなか見つからない。今さらワードでも、エクセルを学ぼうでもない。また、今はパソコンではなく、スマホの時代なのである。私のようにPCデポに入会して、パソコンやスマホの操作に困ったら、彼らに相談して解決してもらうというOBもいる。
事務局を担当しているⅠさんは昨年からZOOMを導入して、ネットでも参加できるようにし、60名の登録メンバーに参加を呼び掛けているが、ほとんど反応がない。登録メンバーが高齢化しているのである。
衰退一方のパソコンクラブの忘年会が10日、13時~秋葉原の「銀座ライオン」で開かれた。Ⅰさんは、内心で今年の忘年会を最後にパソコンの事務局を降りようと思っていた。集まったメンバーは8名。なんと会長が都合で欠席。幸い前会長のNさんが参加。ビールで乾杯すると俄然話は盛り上がった。Sさんが、社友会の新年会もいいが、このような小人数の方が面白いね!予定の2時間はアッという間に経過。Ⅰさんの「来年もパソコンクラブ続けましょう!」で幕となった。ビールの魔力は凄い!

2024年12月8日日曜日

義弟は妻の17音の宝石箱の中で生き続ける。

義弟、伊藤猛さんが亡くなったのは今年の5月だった。75才。私が見舞う間もない急死だった。謙虚で聡明な義弟だった。
昨日、ピアノの上に「対岸」という本が乗っていた。短歌・随筆の同人誌だった。妻がこんな本に興味があるのかと不思議だった。開いて見てわかった。義弟の妻、伊藤美津子さんが妻に送ってきたものだった。
「対岸」を開くと”創刊38周年記念コンクール作品入選発表”とある。俳句の部・最優秀賞1篇「蛍」伊藤美津子とある。15作からの5作を拾う。
 
 もう少し生きたし蕗の薹苦し
 夏椿ぽとりと白き命なり
 まだぬくき御魂との帰路月曨
 黒服の汗の真珠外しけり
 秋田杉のやうな人逝き虹立てり

「私は一連の作品を読んで命の悲しさを思った。その哀しみを強く押さえている。抑えて抑えて抑えきれない悲しみが17音になったような作品群であった」選者、今瀬剛一氏はこう評している。
今まで美津子さんが俳句を詠んでいたとは知らなかった。葬儀を耽々と仕切っていた美津子さん、その心の内には抑えても抑えても抑えきれない悲しみがあったことを知った。美津子さんは受賞の言葉の中で「私にとって俳句は宝石箱のような物」と語っている。17音の中で今後も猛さんが生き続けるのではないか。と思うとホッとした。

2024年12月5日木曜日

レクサス最高級車で箱根へ

2日(月)、9時、「ピンポン」とドアのベルが鳴る。
ドアを開けると義弟の笑顔。玄関前に大きな車が停車している。義弟が運転手付きの高級車で迎えにきたのである。後部座席に座ると、車は音もなく滑るように走りだす。「いや、凄い車だね。いくらしたの?」「トヨタの高級ブランドレクサスです。価格は千9百万です」「えっ!」と驚く。月曜日ということもあり、牛久から3時間で箱根に着く。驚いたのは3時間乗ったのに全く疲労感がない。家でソファーに座ったまま箱根に着いた感じである。走行安定性、気密性抜群なのである。
芦ノ湖湖畔で昼食を済ませ、箱根神社を参拝し、海賊船に乗る。義弟が特別船室のチケットを買ってくれた。海賊船はご覧のように外人客も含めた乗客で満席。4時ホテルに入る。山北に住んでいる弟が先着していた。風呂に入り、6時~夕食。妹に運転役の森川さんの5人での宴席になった。名目は「兄弟会・忘年会」。小生は会費1万円で、送迎付き。ありがたい身分である。
翌3日は大涌谷に行ったが、晴天に恵まれ富士山が美しかった。次いでガラス美術館に案内していただき、同館で昼食を。ピアノ演奏付の素敵なレストランだった。
箱根は見どころも多く、日本一の観光地といって良いのではないか、と認識を新にした。しかし、レストランにしても、ホテルにしても高い。茨城在住の小生は驚くばかりである。格差社会を実感した一時でもあった。
1時過ぎ、箱根を後にしたわれわれは牛久に3:30到着。旦那がお世話になったというので、家内が手製の「おはぎ」を作って待っていた。豪勢な箱根旅と比較するとわが家は質素である。「兄さん、来年は軽井沢に行きましょう」といって、義弟はレクサスに乗り込んだ。